読みやすくもない面白くもない文章の書き方
面白い文章を書きたい。
読みやすい文章を書きたい。
わかりやすい文章を書きたい。
さて、これらは誰しもが一度は思ったことがある願望ではないだろうか。誰だって、つまらなくて読みづらくて理解しづらい文章なんて書きたくない。しかし、これらの願いは共存することができるのだろうか。
ユーモアがありつつも、その過程は理解に難くない。かつ、文章はスッキリしてスラスラ読める。
いやいや、そんな文章なんてない。何かを得ようとすれば代わりに何かを失う。世の中、等価交換という理があるのだ。と、自分はそう思っている。
自分が文章を書く時、先の願望を全て満たすように書こうとは思っていない。というより、そんな技術を持ち合わせていない。読みやすかったり、わかりやすい文章を書こうと意識すれば、中身は味気ないものになっていく。大学で研究をしていた時に感覚が近い。情報を過不足なく盛り込み、かつ論理が破綻しないように文章を書くと、論文のような堅苦しい文章が出来上がる。そこに面白さやユーモアは求められていないため、それでいいのだ。
しかし、自分の好きな内容を好きなように書く時(このnoteという場で度々現れるやつ)、そこにわかり易さや読みやすさを持たせようという意識が格段に低下する。ありがたいことに、こんなnoteを読んでくれる心優しい人があってのnoteというのに、そんな善意を度外視したエゴ丸出しの文章を書いてしまうのだ。こういう自己中モードで書くと、たまに自分でも面白いと思える文章を生み出せることがある(人の感覚は十人十色、千差万別。手前の文章のどこが面白いんだ?ん?となる人がほとんどだろうが、自分に刺さる時ってあるんですよ)。
学術的モードで書けばある程度わかりやすい文章を書ける。自己中モードで書けば誰か(少なくとも自分)には刺さる面白い文章を書ける。この2つのバランスを取ると…特別読みやすくもなく特別面白くもない文章の出来上がり。
現実は非情なり。