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誰かを「推す」という行為に伴う加害性

私には「推し」が何人か居る。

「推し」は幸せを運んでくれるし、新たな世界に触れるきっかけをくれたりもする。良い事づくし。

でも、実在の誰かを「推す」という意思表示は、時に誰かを傷つける行為でもあるということは忘れたくないなと思う。

例えば。「推し」が人種差別的な発言をしたとする。

差別をされた側の人達からすると、その人を応援している人達でさえも脅威に思えてしまうと思う。

“誰かを推す=その人の考えを支持する”という人ばかりではないのは当然の事ではあるが、明確に「その考えは違う」という意思表示をしなければ、“その差別的な発言を支持している人”なのか、“違う部分で応援はしているけど、差別的な発言には賛同していない人”なのか傍から見たら見分けがつかない。

例え差別的な発言に賛同していなくても、“意思表示をしない=その問題を軽く見ている”とも受け取れてしまう。

だから「推し」の言動に対して、“これは違う”と思うことがあったら出来るだけ意思表示をするようにしたい。


…と思いながらなかなか出来ていない現状。何かに異議を唱えるって、とても疲れるし慎重にならなきゃいけない事柄だと思うので難しい。

良いと思った物は積極的に褒める、これは…と思ったらコメントしない、という事で消極的な意思表示はしているけれど、こんなんじゃ足りないのは重々承知です。

余裕がある時は頑張って意義を唱えることを心がけたいと思う。


せっかくなのでここで1つ意思表示。私は推しがどんな発言をしようが、人種差別、ジェンダー差別、障がい者差別…様々な差別に反対の立場です。

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