「人生を楽しむことの尊さを知った」→「誰もが当たり前にそうなる社会を作りたい」
はじめに
「誰もが安心して楽しむことのできる社会」を目指したいと思った理由の第2弾。第一弾は、過敏性腸症候群のことについて書いた。(完結編かもしれない…計画性のなさ笑)
第一弾で書いたことと被るところは、端折っているところがある。
友人たちがおかしいと言ってくれたことで目が覚めた
ZOOM会でこの話をすると、友人たちは、(私の代わりに)画面上で怒りを表してくれた。それを聞いて、「私の感じた思いは、間違っていなかった」。そう思えた。そこで、ようやく、「怒ってよかったんだ。。。」と思った。
それと同時に、私のように、
「理不尽な思いや事柄を発散することができない。生きるために、「仕方がない」と感情を麻痺させないと、生きていくことができない。そう思わざるを得ない環境に、いる人はいないだろうか?」
と考えた。
それが、私が、「誰もが、障害の有無に関わらず、安心して過ごしたり、楽しんだりできる社会」を目指したいと思うようになった理由の一つである。
「人生を楽しむ」ということ
「今の私に人生を楽しむ資格なんてない。今は力を蓄える時期なのだ」
過敏性腸症候群発症前の仕事を始めたころの私の言葉である。同僚達には、「ストイック」「修行僧みたい…」と例えた人もいた。
休みをとれるのは(家庭の事情など除いて)、「当たり前のことが当たり前にでき」「頑張った人へのご褒美」だと思っていた。
しかし、頑張れば頑張るほど、「やらないことへの風当たりが強くなる」。特に、上司は、私の吃音を気にしていたので、どんどん、仕事をくれる。
障害がある人は、ならさら、以前できたのだから、だらけていると思われることもあるのではないだろうか。
「あきらかに、私よりも頑張ってない人(うまく見せられる人)が、遊びのために休みを取っていく。褒められていく。なぜだかわかないけれど、「同じように休もうとすると顰蹙をかう」。私自身が他人の感情を理解できないと幼少期から思うことが多かったので、声を上げることが怖くなっていった。
絶望と期待をうまく消化できていなかった時期の友人たちからの誘いを断った集まりの写真は、今でも、胸が痛くなり開くことすらできない。
「誰かは見てくれていた」
だれど、上司に届く前に、私の心身が悲鳴を上げた。
吃音症(ハンディキャップ)と仕事
図書館という職場環境や周りの理解もあり、忙しく仕事をさせてもらっている。そのおかげで、多様なことができるようになった。
一方で、上昇志向の強さのせいで、「言葉の壁を埋めるくらいの仕事を」「手に職を」とのエールに蝕まれていった。だが、鈍感な私は、気がつくことはなかった。
「いかなるときも100%の力で仕事をするためには、どうすればいいか」当時の命題であった。今思えば、、完全に、ヤバい領域である。
障害者に向ける目
私たちは、マイノリティ側の視点ではなく、マジョリティ側の視点で物事を見る。当事者の見えない努力は気がつかないものであるし、できないことを責めてしまうことだってある。
手話サークルで出会ったろう者の話から
「(手話はてにをはがないので)一般向けの本は難しくて読めない」「テレビは字幕がないから見ない」「映画は字幕のある洋画しかみない」と言っていた。
もちろん、これらを克服しているろう者もいることは追記しておく。
誰もが人生をデザインできる社会を
「学びたいという気持ちはあるけど、そこに行き着くまでにハンデがたくさんある人たちが学ぶことやその気持ちを諦めなくていい社会」
それは、私たちが日頃やっていることと変わらないのではないだろうか。だが、「障害があるから」とか「危ない」ということで、妥協策を見出すこともせずに、断ることも多々あるのではないだろうか。
「合理的配慮を受けながら、当たり前の権利を当たり前に主張できる社会になってほしい」と思う一方で、「弱さを冷ややかな目で見られない、頑張ることが前提とされない社会に」もなってほしい。
まとめ
・この「夢であり目標」ができた時、突き詰めれば、「自己満足でしかないのではないか」と思っていた。だけど、色々な人に話すうちに、「自己満足から始まったかもしれないけど、社会へ求めてもいいこと」なんだと思えるようになっていた。
・すべての経験がつながって、「目標」ができた。
・「頑張りたい人と思う人が頑張れる社会の温かさを。」「頑張れない障害者が、冷たい目で見られない社会を」どちらの視点も大事だと感じている。
・「私たちのことを私たち抜きで決めないで(Nothing About us without us)(障害者の権利に関する条約より)」とあるように、当事者とともに考える(with)ことを忘れないでおきたい。
・身の回りのできることから、はじめていく予定。