過敏性腸症候群発症初期の景色
誰もが楽しめる社会
私の夢の話、第1弾。今回は、過敏性腸症候群の話のみ。私の転機となったもので、この話なくして語れない。どこまでのシリーズになるかは未定。
体調不良
私は、2020年晩春に、過敏性腸症候群(IBS)になった。
診察した医師は、初めから、過敏性腸症候群を疑っていたのだろう。念のため、上部内視鏡(胃カメラ)や下部内視鏡(大腸カメラ)、CT、婦人科系疾患の除外などを行い、告知された。
症状の一例
ごはんが食べれなくなった。体重が10キロ近く減った。
いまだに、治療中であることからも、私の体はギリギリまで粘り頑張り、悲鳴をあげたのだろう。
自分の意地とプライドを保つため
瀕死の状態で仕事は続けていた。休むことを選んでしまったら、ふがいない自分に、弱音を吐いたらみっともない自分を受け入れることができずに負けてしまうのではないかと思った。
発症した時の感情は、「悔しい」だったことを覚えている。この環境を受け入れられる手前にいると思っていたから。
ちなみに、2020年は、記憶がほとんどなく、新鮮な気持ちで、クイズ番組など視聴している。
体調不良中の仕事
ひたすら、目の前にある仕事をむさぼるように続けた。考える元気もあまりなかったので、すべて一つ返事である。
上司は理解のあるようなないような人で、「気持ちで負けている(どこにも異常がないため)」「(元気そうな顔しているのに)なぜいつものクオリティで働けないのか」と言われることが多かった。私自身も、自分に苛立っていたこと、受け入れられいなかったこともあり、何も言えなかったことを覚えている。
同僚は、真逆のことを思っていたらしいが...
働き方
私は、幼少期から吃音症がある。吃音症に関しては、入職するまで、ぬるま湯の中にいた。
上司からは「吃音症がある分、他人より何かを身につけなさい」「人一倍頑張りなさい」と理解と応援をしてくれた。
私は、休み申請時に、うまくごまかせず、「自由だけど、今の若い子はそんなことで休みを取るんだね」という目に耐えられなかった。今思えば、ブラック手前だ。
友達との約束も、興味ある舞台や講演会も、すべてと言っていいほど、キャンセルしてきた。当時は、今の私は、仕事で成果をあげるときと言い聞かせていた気がする。
「昨日の自分を超える」「常に90%以上のパフォーマンスを出す」とか、上しか見えていなかった。
過敏性腸症候群発症前の体調の違和感
「眠いのに寝れない」「ごはんのあと少し食べれそう→トイレとかで落ち着いたら吐いてしまう」「朝、目はさえているのに、社会生活という重りがのしかかって、起き上がるのに1時間くらいかかる」などなどの症状が出ていた。
だが、気の迷いだと思って放置していた。3年目くらいのころだっただろうか。3年定着率とはよく言ったものである。
ちなみに、現在は、社会人6年目だったかな。
私を支えた仕事
ここでは伏せるが、歴史や街並み好きには、悲願のことが起こった。それに携われていたから、瀕死の状態でも職場にいき、なんとか仕事をできていたのだと思う。「気力」「精神力」で仕事をしていたので、承認待ちのころはエネルギーぎれ手前である。
大病院、再受診
12月の中下旬、もう一度、紹介状を持ち、第三次医療圏の基幹病院(選定医療費取られる)を受診することになった。まだ、地元の病院に通院していた。もちろん、血液検査の結果は良好である。
「やっぱりな」「だと思った」の次の瞬間、「どこかに異常が出れば、そこが悪かったですと言えたのに…」と泣き出してしまったのある。いいことなんだから、泣いちゃダメだと思ったのに、止まらなかった。
今思えば、私のメンタルはボロボロだったのかもしれない。幻覚とか気持ちの問題ですか?とガチで聞いていた。
消化器内科に行く予定だったが、一般内科(総合診療科/救急医)での受診となった。内視鏡検査の結果を聞くため受診した際に、消化器内科的にはできることはないに等しいと言われていた。消化器内科医より、一般内科での診察を勧められた。納得である。
休みを取得しようとしたけれど…
年末年始休めるのであれば、残り休ませてもらえる環境であれば2週間休むことを検討してもいいでしょう。必要ならば、診断書を書きますとのアドバイス。
同僚とシフトチェンジを打診し、同僚のOKを得られたため、上司へ伝えに行った。その時は、OKしてもらえた。
だが、後日、すごい剣幕で怒られた。
怒られた理由
「聞いてないといっている」「新婚さんにクリスマスイブ休ませないのはなぜだ(本人が出勤に変更していたにも関わらず)」「遠いのに、遅番にするとは何事」、「どうして気を遣ってあげられないの?」
上司は、脳と口が直結しているようなことろがある。
話の最後に言われた言葉。
「まぁ、本人は変わってほしいと言われたのは聞いたけど、どうなったかを聞いていないと言ってるいる」
心が崩れる
私の中で、何かが崩れる音がした。心の中で、笑いが止まらなかった。不思議と怒りは感じなかった。職場としての図書館に未来はないと思った。燃え尽きていたこともあり、潮時なのかしれないとすら感じた。
父の一言
8月に3日くらい休んだ時に、上司から家に電話がかかり、父がとった。父にとって、上司の感触は良かったらしい。
辞めてもいいと思ったし、医師から時短も提案されていたので父に相談した。だが、
仕事とはそんなもん。理不尽なんて当たり前。
さすが、合併や統合など、変化の中でキャリアを積んできた人である。
人生観の変化
皮肉なことに、父のこの一言は自分の中で大きかった。
なぜ、大きかったのかは、これからの夢の話で出てくるはず。
Zoomに救われる
友人がZOOM会を企画してくれたので、数年ぶりに顔(画面越し)に見ることができた。
友人などに話すと、逆に、友人たちが怒ってくれた。間違いなかったんだと安心したことを覚えている。
それがなぜ、誰もが、楽しめる社会づくりへ向いていくのかは次のお話。
まとめ
私は、自分を押し殺し生きていたし、絶望とどう折り合いをつけて生きていくかを考えていた。この田舎町で、後ろ指を指されずに、生きていくために。
折り合いの付け方が完成しそうな手前で、過敏性腸症候群になった。そのため、「悔しい」感じたのだと思う。
いつ、心や体を壊してもおかしくない状態だった。だからこそ、体がやめろと言っているような気がしてならない。
前向きで、優しく、感受性豊かで、他人を思いやる心が、あだとなった。
私は、過敏性腸症候群にならなければ、自分の働き方や押し殺していた気持ちに向き合い、開放することはなかったと思う。
寝ることと仕事をすること以外できず、数年分の人生が消えたと思っていた。
他人(特に気の置けない友人)と会話すらままならない状態は、危険だと思った。洗脳されていくのである。抜け出せなかった。私には、同期と呼べる人がいないも同然。
ここまで、書いたが、途中、書きながら、涙が出ました