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感じすぎ、受けすぎ大問題

感じすぎ大問題

個人として、この様な表現を使うこともあるのですが、感じ過ぎなのはわかるけど、一体何をそんなに感じる、受けるするのか?

日常生活において、人を避けないと行けないほどというのは、どういう事なのか?

そういう部分にあまり触れてなかったなぁ、と、ふと思い。

今回はそういう部分に触れてみようと思います、よ。


何をそんなに…?

日常生活に置いて、色々受けるにしても何がそんなに影響を及ぼすのか?

何を感じてるのか?

というのは、なかなか伝わり難い部分があるものの、そういう言い回しを見ると、一体何をそんなに?とも疑問を、持たれ……るかどうかはさておいて。

ほんとにこう、幼い頃から大問題なんですよ、ね。

相談ということなら、対面して相手がちゃんといる状態なので、相手の表情や仕草という部分から何かしら感じ取ってる、というのは、なんとなくは伝わってそうですが、実際掘り下げると、目の前に居ても感覚的にあっ!という感じです。

それを不思議がられるので、自分を振り返るとそういう目についてる部分、耳に聞こえてる内容の聞こえ方、を自然と受け取ってるという事が、記憶から示されて、そこで自分でもようやく納得。

そんな感じで、詳しく突き詰めると、二段構えみたいな感じです。

そして、こういう部分を日常と突き合わせると、人の感情による様々について感じ取りやすい、影響を受けやすい、ということが一つ上がります。

特に怒につながりそうな、イライラや不満、それ以上に攻撃的にすらなってますよね?と言わんばかりなので、ネガティブさが凄い事になるんですよ。

なのでもう、テレビなんて見てられません。

現状は”状況が悪化したほうが寧ろ喜々として”と言わんばかりというか。

水を得た魚のように、何が正しいだ、間違いだと、そもそも自分たちも知識がなくて大して知りもしないのに、と突きたくなるほどに、感情論ばかりでこまっちんぐ。

それだけでなく、顔に出てる人もますし。攻撃的な意識が。

感染症を問題にしてると言うより、それを扱って違う何かをしてる感じを隠してない程、と。個人としてはそのように感じます。

なので、見たくはないのですが、病院や処方箋薬局での待合の所にあると、結構悲惨です。でも、個人的な事情なだけに強く言えない以上、我慢するしかないんですね。

え?そんなの好きに言えば?

そういう人のネガティブに迷惑してるのに、同じ真似出来るはずがないって感じです。そうやって、自分が吐いてしまうものからも影響うけるんですから。

自分が出すこと自体以ての外。

自分の嫌なことはなるべく、現実の生活側で振りまく事はしないように常に心がけてます。

感じやすくて大問題だからって、自分が戒められなければ、今度は自分の様から感じ取れてないって話にもなりますし、ね。


人の感情というものは、特に

無意識のうちに漏れ出てる。

無意識のうちに自分もやってしまってる。

周囲や他者だけでなく、自分からすらも、嫌なものを感じ取るし、出てるのを受け取ってると言わんばかり。

なので、時として自分自身が嫌になるんですよ。

やっぱりその、ね?

相手や周囲がそういう怒に近い色々を振りまいてると、影響されすぎて、自分自身が怒ってしまうんですよ。

そりゃ、人間だもの。仕方がない……、にならないんですね。

そもそも、怒りたくないので我慢してるのに、どうにも止められなくなって…というのは、自分に取っては失敗に近しい事と言わんばかりというか。

幼い頃の、自分じゃない自分になる、というのは必要であったとは言え、悪い部分も生んでしまってます。

こういう部分から、自分に厳しく他人に甘いで普通とは真逆、ストイック過ぎとか言われるんですけどね…

兎に角、感じすぎるから、自然としてしまうんです!

ってのを、聞いてくれないんですかぁ?というか。

まぁ、こういう部分から、感受性の差というのは感じる事もできるんですけどね。

自分がされるのは嫌だけど、と言いつつ、自分がやる側になると自己弁護する、周囲やその他の人たちに怒ってるから、自分として自分の責任をきっちり取るためにやるべきことはやる、をやってんですよ!

こういうのって言いかえれば無責任ですし、何かしらがあると、突かれて逆ギレって様を日常で見せられるだけでなく、そこで嫌過ぎるものを受け取ってしまうから…。

そういう、ね。

嫌すぎるものを受け取ると、やっぱり体調というか。体の方が気持ち悪くなったりもしますしね。

頭の中が整理しきれないほどに感情で埋め尽くされますし、それ故に体の方(頭部)が気持ち悪いくらいにザワザワした感覚が走ってますし。

また、胃もせり上がるようなときもあるし、喉に異物感を感じてしまう。

そう、正にストレスの反応がでてしまうんですよ。

体は正直だなぁ(ニヤニヤ、が悪い方で出てしまうので、自分の体調管理のために、把握してる、掴んでるんだから、自分自身が制御して当たり前=真面目でもストイックでもないという言い分になる、と。

それほどに、感じ取りすぎる側からすると、無意識と言うより、無責任なほどに無自覚という様に受け取れてしまうからこそ、

そういう人にはなりたくない。

自分のそういう気持ちを優先してるんです。

それほどに、人の感情からの色々って感じすぎてしまいます。

なので、感じ取る自分自身も、それを見て違いを把握してるのに話を聞かず自己弁護に走るその他大勢も。

人間って、どうしようもねぇな!

に、なってしまうんです。


五感についての話

結構見落としがちな事として、

常に影響を受ける、感じ取る、してます。五感は。

常に何かしらの影響下にあるので、その中での些細な変化、周囲が誰も気づけない小さすぎるもの。

そういう部分で、自分だけが突出して感じ取る、ということが明らかに多いです。個人としては。

それを見た周囲どころか、自分すらもおかしく感じてしまう程に。

苦手とか、得手不得手、苦痛とかは関係ないです。

兎に角、耳に届いたもの、鼻に届いたもの、日中常にある日光からは、何かしらの影響を受けてて、一瞬思考が切り替わって処理や判断されたり、作業しながらでもバックグラウンドで、と言うのが日常で。

その中で変化があった時に、不思議と出る杭になると言わんばかりに、自分だけ気づいてしまう=小さすぎて、些細すぎて、周囲は気づけてないのも確認、把握出来るほど。

また、過去に犬を飼ってた経験からは、犬レベルないし、犬より少し早くと言う感じで、逆に「ワンコ~お母さん帰ってきてるよ~、車来てるよ~」と教えてあげると、

ぴく!っと犬が反応して、音を聞き取って気づく。

なんてこともあったくらいです。

この辺ね。たまたま家族もいて、まだ車の音してないだろー?って言ってたら、家の前に車が付いて「なん…だと…。」する事もあったほど。

小さすぎる音に気づいてるとも言えますが、聞こえてる範囲がおかしい、と言う感じにもなります。救急車の音もそんな感じで。

そういう、ね。

常に何かしらを受け取ってるから気付ける、些細な変化への気づきやすさ。

五感での感じ取りって、感受性が高ければそういう経験が間違いなくあると思います。

まぁ、五感も感じ取りすぎて大問題。

小さすぎる、些細過ぎる部分への気付きの方が目立ちます。個人としては。

なので、感覚過敏は違うでしょ?

自分が苦痛を感じてる部分だけ、なのでは?

そういう疑問がうまれるんですよ。

小さすぎ、些細すぎて、周囲が気づけない、の話しってほぼほぼ見ないですしね。


自分で向き合うのって大事

というかまぁ、今回の内容に沿った事を言うなら、

正直、常に自分で向き合ってないと、途端に人生が無理ゲーになって詰み。

なので、今でも常々色々向き合ってます。

どうしても影響を受ける、感じとるする=受け取った物への対処を自分でしないといけない。

そもそも、違いに気づいてるのに、認めたくないと言わんばかりに、その違いはおかしいだなんだ矛盾するのが他者ですから。

しかも、経験上でも、不思議と少数派どころか、自分だけになるくらい。

自分以外の誰かを説き伏せようなんて、まず、無理ゲーです、無理ゲー。

正直その、HSPのブームに色々言ってますが、HSPという言葉と自分がどうこう以上に、

常に向き合って無きゃいけない物が多すぎ大問題!

なので、そんな事気にしてる場合でもない。

それ以上に、です。

HSPって、心理学でいう感覚処理感受性の中でその感覚処理感受性が高い人をHSPと表す、ってしてるだけとも言えるんですよ。

だから、それをもってHSPかどうか?を判断してもらう。

個人に当てはめて、使ってもらう。

そういう狙いとか、そういう為の物ではないんです、よ!

あくまでその概念の中で、高い人をこう表す、ただそれだけ。

ほんとこう、なんていうかもう、やれやれというか。


話題性ってだけで、ブームは起こらないです。

そもそも、話題性ってその地域に住んでないと知れない、という様な局地的な話題性なんてのもあります。

逆にそう言う部分からは、話題性だけでブームが起こる様なら、ブームが多すぎて何がどうブームになってるのか?が分からなくなる。

言い換えれば、誰かが狙ってそういう火付けをした=ブームになった。

そういう可能性があるものなので、迂闊に乗っかると、誤解や間違いを起こしたままになり、それを当てはめてた自分自身が、違う誰かの生きづらさの元になり、傷をつけるという、なにやってんの?をやることにもなる、と。

生きづらいって言うのに、他者の生きづらさに目が行ってない、関心が言ってない。

そういう人が多すぎる時点で、相当に危険な状態とも言えるし、今まで何度となく日本社会が繰り返した、ネガティブさ、その物です。

感受性が高すぎると、色々ありすぎて、人の様相だけでなく、そこに付随する現実そのものとの向き合いも必要になるんです。

なので、そういう部分から、受けた影響や感じ取った物を照合すると、まんま今まで通りの悪い癖、が見えてきます。

そうある人には見抜かれる、すっぱ抜かれる。

そういう危険性もあるから、調べて、知って、触れて、学んでを、しましょうと。最初は言ってたんです。

うん。

ほんとこう、ね。

違いすぎてておかしいというのも、そもそも地が変ってるんです。

それ故に色々あるので、色々向き合わなければいけない事が多すぎるという部分からも、自分から知ろう、調べようと動く事もあります。

結果、様々な部分と向き合いもするんですよ。

目の前にある現実として。

とはいえ、同じように現実と向き合ってたら、感じとるだけでなく、それを処理しきれる能力やキャパシティも無いと、恐らく無理が祟ると思います。

なので、せめて、自他含めて、人と向き合いましょう、と。

それだけでも、見える世界が変わるだろうし、気づくものが増えて、自然と自身の感受性を伸ばす方にも向くと思います。

これからはそういう、個人が向き合うからこそ、そういう個人が増えて、全もまた個人に向き合ってくれる。

こういう相互の関係から、色々変わりだしてくれるのでは?と。

これからは、そういう流れになるんじゃないですかね。

うん。


あとがき

ええ、ほんともう、色々過ぎて大問題です。

もうね。引きこもるだけでなく、眠って、意識閉じてないと、とんでもない事になるというか。

ほんとこう、どうにかして塞いでほしいって思いますもん。

体の方がもう、ね。

探れないほどに深い所に何かあるのか?

自分では把握できない所からの、体調面への異常って出てるのを把握してるので、結構大変です。

コンビニに行く程度でも、下手すると空嘔しておえーですし(笑)

そうなると、やっぱりこう胃は動いてますし、体への負荷もありますし、気持ちが沈む方に動いてしまう...。

まぁ、そういう悪い部分すらも、自分が自分であるからこその、自分が持つものなので。

自分が向き合う、付き合うするしかないんですね。

こういうのを、苦労人とか言う人居ますけど。

楽より先に、苦を拾っとかないと。

楽を先に拾うばかりな人が多かったからこそ、世の中から苦を受けとるじゃろ?

なら、これで終わりというわけでも無いし、先々での楽を考えたら今のうちに苦を拾う。

それだけです。

ということでー。


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