書くリハビリ 感じた時の情報量
さて、と。
今日はたまたま光が眩しくて、いろんな影響があったわけですが。
はたして、光があたって、眩しいと判断する一瞬に何がどうなっているのか?
あくまで、個人が感じ取ってるものですが、書いてみようと思います。
多分、驚きますよーう。
眩しいと感じるその一瞬に
個人としては、最低でも、
眼球→視神経→脳
という感じで、メインは3箇所あります。そして、更にその3箇所が、
どのように受け取って、その時にどの様な反応をしているのか?
ということすら、感じ取ってしまう、サブの感じとりって言えば良いんですかね。
主以外の、副の反応すらありますし、実際にそれだけの情報が一瞬で脳に伝わるだけでなく。
言語化して、噛み砕いて説明すらやってのけます。
うん。
なので、その場ですぐさま説明をしたら「そんなことありえない」と。
ちなみに、生活する上で目が物を見ている、色を判別してるというのも、
光の反射と吸収の影響、とも言えるんですね。
個人として、色々調べてしまうというのは、どうにも感じとり方がおかしいが故に、
そうある自身だからこその、説明責任があるとも言える
だからやってるんですよ。
目に光があたって、一瞬で眩しい!となる瞬間の情報量が、それ程に多くなる。
光が目にあたった、眩しい、辛かった。
こんなの朝飯前どころか、赤子の手をひねるレベル。そう言わんばかりに、ね?
影響を受けるからこそ、その状態を脳に伝えるという、体の仕組みがあるがゆえに情報量が、一瞬で、深い所まで。
DOESなんかも、ほんとこう、そうあるなら嫌でも自分の体がそうあると思います。
ここが同じとか、自分ではない誰かの特徴に合わせる必要が、ありません。
何がどうあって、どうなってるのか?
うん。実際に、感じ取ってる物をお話しようと思います。
目と、光、そして眩しさ、という部分に絞って、限定しての話です。
さて、光って反射と吸収が発生するわけで、それによる違いが生まれるからこそ、色が見える、と。
また、光速という言葉が示すように、実際は目に見えないけど光の波長が、すごい勢いで反射された部分から、発生して拡散される。
ちなみに、反射する際には、一定の角度で当たれば、一定の方向で返すというものではなく、拡散して広がるかのように飛ぶ、と思います。
そう言えばイメージ付きますかね。
言うなれば、目に見えないだけで、すごい勢いで光の波長=目に当たると光や色だと判断される情報が常に飛び交ってるわけです。
うん。
正直、説明するとはいったけど、余りにおかしいので調べた予備知識もある分、
情報量多くない?流石にありえないでしょ?
って、なってしまいそうだな、と。
とはいえ、ここを説明しておかないと、目に入ってからがおかしいんですよ。
単純に光や色を認識するにしても、眼=眼球は水晶体なのでそこでも、光が進みながら抵抗があるような物なので、常に一定方向に進む光と、拡散しながら進む光が多分あるのだと思います。
なので、強い光が目に入ると、眼のそういう光を受ける部分に一斉に光が届き、それを一斉に伝えだすので情報量が多くなりすぎる事で、
うっ!!眩しい!という、ね。状態になるのではないかな、と。
うん。
で、敢えてこう、反射と吸収だとか、光なので光速=すごい勢いだとか、拡散してどうこうと話してる部分が、
目にあたった時に、受け取ってしまってる情報と、受ける・伝わるすることでどんな状態になってるか?=まるで衝撃を受けたかのよう、という部分も合わせて、受け取れてしまうわけです。
で、それが3箇所というか、3部位。眼球、視神経、脳で発生するので、正に、光であるがゆえに赤い彗星の如く、3倍になってくれるわけです。
うん。
そして、それをキャッチする、伝える際の情報量が多すぎることで、各部位がどのようになってるか?という部分での「衝撃とも言えるもの」も、3部位それぞれで発生してるものを、更に上乗せで、どん。
また、個人としては、偏頭痛持ちでその際には視神経での痛みや疼きなんかも感じ取れるせいで、視神経を通る情報が、それを思い出すどころではなく、再現できるほどの状態で伝わてます。
その影響なのか、体調次第では、強い光が当たることで、片頭痛の時のような気持ち悪さと、軽い痛みがでてしまう。こういう状態も、体に発生してしまうし、したからには脳に伝えられる、と。
ええ、そうです。
光が目にあたって、眩しいと感じる間に、これだけの情報量がある。
でも、それを脳に伝わって、眩しいと口にする、一瞬で掴み取る。
どうですか?
ほんの一瞬の話なのに、眼や視神経、脳がどうなってるのか?という話の深堀りをする。
DOESで言う、D=深い処理の正体はこうなんだと、言えるほどに、情報を受け取ってるだけでなく、整理した上で、言語化すら出来るんです。
体が何かの刺激を受けて、その結果どんな反応をしたのか?は必ず脳に伝わって、それが整理されることで、判断され、表現もする。
それについて、おおよその人が光が眩しかったという部分を、おかしな程噛み砕いて、体に発生する影響を些細な部分まで拾ってる。
敏感っていえど、結局はそういう、体が受けた刺激に、それを受け取るところがどれだけ受け取ってるか?、受け取るだけでなく神経を通って脳に伝わってる量はどれほどか?という部分の話なんですよ。
そういう部分が、ね?
余りに敏感に感じすぎてるし、それ程に感じるということは、神経が細かく細部まで行き届いてる=繊細と言えるほど。
うん。
まぁ、3ワードですら、使って説明できるんですわ。
幼い頃から、それが当たり前
個人としては、幼い頃からそういうのが出来てました。
ただ、幼い頃は、如何せん知識だけでなく、分析や検査で言う「再現性」を自分の体で再現しきれてないので、説明が結構お粗末だった。
でも、言われればわからなくない。
ただ、周囲が自身の体の反応と比較した結果、違うと言ってるのに、自分と同じじゃないから「ありえない」と。
体自体も身長や体重という成長の部分だけでなく、筋肉の付き方、そこから派生する瞬発力も違いますし、持久力は別の形で違うのが当然。
それ程に違う事を理解してるのに、「自分は感じない」から「ありえない」と言って、こちらの体の反応を否定するわけです。
感じ取ってるのは、こちらの体なんですよ。なので、私が説明してる=周囲が聞いてきた=私の反応の仕方が話の主題なのに、勝手に自分の話にすり替えて否定をする。
それが、日常で発生するので、1年を通してたら、それこそ宇宙みたいな状態になってしまうほどに、
兎に角否定されるんだよ。
ほんと、面倒くさいんですよ。
違う体持ってるからこそ違うのに、自分はそうならないから、それはありえない、おかしい、勘違いだと。
体の内部の反応や、神経の伝達、それによる脳の処理という部分で、全てどころか、一部すらも覗けるわけがないのに。
そして。
だからこそ、体に発生してる反応ですら、自分自身すらも表向きは、無いこととして振る舞う、と。
感じ取って、苦痛を覚えても、口にしようものなら、同じじゃないが故に把握できないのに、説明は一切聞かず、叩きに来る。
これが、当たり前、なんですよ。
否定って、ネガティブなもの、ですからね。
そもそも、違うからだであるからこその反応なのに、こっちの現実は無いものにされると言わんばかりに、否定される。
過敏性腸症候群の激痛、そして顔面蒼白という、ハンデを更に抱えてる上で、人が口にした数だけ、ネガティブな影響を受けてしまう。
なので、インポスター症候群ではないですが、自分がわからなくなるほどに、自分を周囲の理想、周囲の言い分に合わせてきた、と。
だから言うんですよ。
人間って、相当に無責任だぞ?と。
ただただ、個人の感想であっても、結構突き詰めてるし、突き詰められるほどに経験してるわけです。
そして、相手が何をどう考えてるかはわかりません。ですが、必ずと言っていいほどに、「否定」で一致します。
今回は、眼と光だけで話しましたが。
音も、臭いも、痛覚も、風が体を避けて通る際の肌感覚も。
全部が全部、真っ向否定だらけですよ?
それが、
幼い頃からの、当たり前。日常レベルで発生してるので。
それこそ、宇宙に点在する星の数ほどの、否定というネガティブを受けてしまってる。
それだけでなく、否定する時の、表情や仕草、言動や声色、声の大きさという、否定する他者が相当に感情だだもれで、ネガティブ飛ばしてくるので、ね?
生きづらいだなんて言ってたら、生きていけないレベルだ、と。
そういう事を訴えてるんですよ、ね。
そして、これらは今でも続いてるので、相当に人を避けたんですよ。
ストレス発散とか出来ねーから。
周囲がいい加減すぎるからこそ、飛ばしてくる物が多すぎるわけで。
でも、それが当たり前どころか、こっちは相手の状態すら、相談上手、聞き上手、教え上手と言わんばかりに、自然と相手の状態に合わせられるほど把握出来るんですよね。
だから、敢えて言わない、と。
そもそもが、こっちが不利な状況すら、相手にとっては過ぎるという、優位と感じてしまってるからなのか、一方的に否定して辛さや苦しみを踏みにじるわけですから。
それがわかってるなら、言わないのが当然ですよね?
言ったら叩かれて、無駄にストレスふやすだけでしかない。
だから、真面目とか、気を遣ってるのではなく、自分のために取捨選択をした上での行動だ、と。
ほんとこう、話し聞いてないんですよ。
話を聞くってのは、受容も必要なんです。
それが出来てるのかわかりませんが、相手がそう感じてくれてるようで、相談したことで、少しでも安心できた、落ち着けた、ヒントになったかも、と。
更には、相談が終わってしばらくすれば、解決した、話が進んだという連絡が来ることで、相談上手だと言われるようになりました。
個人としては、話を聞く=受容する、をやってるだけ、なんですけどね。
うん。
あとがき
もう、ね。日常の中で、眩しさなんてその日の天候次第では、
夏も冬も関係ないですわ~
だって、光がある以上、目で見えてる=光をキャッチしてるわけで。
蛍光灯が眩しくて、とか、なにそれ?なんですよ。
そうやって、光だけでなく、音や、風の当たり方、温度差という肌感覚すら、脳に常に伝わってるし、今の時期なら暖房をつける事での、温度差による対流や、エアコンなら風が少なからず触れるということすら。
把握してる。
だからこそ、自動思考なんて止まらないんですよ(苦笑)
だって、脳に情報が伝わってるんですもん。体が受けてる影響についての情報が、ね。
集中することで、神経が研ぎ澄まされる。
それも、全身に伝わってる神経が総じてそうなるからなのか?
集中したほうが周囲の感じとりの厳選もシビアになるし、情報を的確に判断しだす、と。
幼い頃から、自分じゃないクラスの他の子の状態ですら、言語化することで問いかけて、それがあることで相手が状態を自覚するというのを、自然とやってました。
だから、大人の理解を声もするので、バツの悪さからカッと、ね。
子供の頃に、親以上に気づくようだと、寧ろ親の状態すら正確に把握してしまうので、
「黙る、演じる、ごまかす」で、親には見えない、気づけないに、その子供自身がやらかす、と。
ほんとこれ、それ程に、注意することで意識を集中させて、その子を観察しながら、大人として経験値で持ってる「人を見定める」をしないと行けないんですよ。
自分はそうならないから、なんてのは、ド阿呆です。
親のくせに、大人のくせに、全然子供が見れてない、気づけもしない、と。
子供だって、親が大事なので、ただただ我儘を言うだけでなく、気づける子だから、多少の我儘で済ませて、聞いてもらえなさそうだと判断した上で、自身だけでなく、親の負担も考慮して、引くわけです。
大人しくて、真面目なんじゃない。
それ程に、子供であっても、感じ取ることで、気づいて、判断して行動するんですよ。
そして、これが1歳の時点で、弟を妊娠したことに、教えもしてなければ、どういうことかも理解できそうもないのに。
自然と、私自身が「全てわかってる」と言わんばかりの、「ありえない」行動をしめしだした、という部分です。
私の母が、親として守ってるつもりになってただけでなく、私の方ですら一番話しを聞いてくれて、理解してくれようとしたのが母だったという、ね。
でも、まるで普通の子供の様になっていく裏では。
何度訴えても、待遇が改善されない、兄弟間の格差。今となっては、厚労省のホームページにすら、児童虐待として記載される内容。
これがあったんですよね。まぁ、これだけじゃないですが。
弟は新しい洋服を買ってもらえるのに、私だけはまだ使えるからと、従兄が使ってたものを強制させられるだけでなく、我慢を強いられ泣く泣く引き下がるばかりの環境が影響してしまいました。
というか、その時点で既に、なんでおやつや食事、洋服を買ったり出来るのか?という部分では、父が仕事をして養ってくれてるという把握もしてたんですね。
そして、これだけじゃない、の部分には、頻繁にあった夫婦喧嘩があります。
子供のこと、家計のこと、他様々なことに対し、父は全部お前の仕事とつっけんどん、母は助けてほしいと訴えてる。でも、水掛け論。
それが分かってるから、把握してるから、助けたかったのに。
「子供のくせに!」
と。話を聞かないどころか、出来すぎてたからこそ、親が認められないレベルであったため、怒鳴られ踏みにじられる。
そういう経験も重なってます。
その結果、
「母親ですら、気づけないほどに、演じれる人間になってしまった。」
それを、ガンを患っただけでなく、日に日に悪化していく、肺が片方完全に潰れてしまっただけでなく、もう片方すらがん細胞が襲いかかってきてる。
そういう、痛みや苦しみが様々に交差した時に、ようやく思い出して。
「ああ、わかってたのに、やってしまった。気づいてたのに、精神を病ませてしまった。でも、もう、自分の命は・・・」
うん。
お涙頂戴ではないです、これが、私個人と母の間にあった、
現実です。ただの現実の話です。
うん。
こういうのも、ね。
なんでか、気づいた時に意識しなくても、頭の中に宇宙みたいなイメージが湧いて、星座を描くかのように、繋がってしまうんですよ。
そして。
そういうことだったのか、と。
現実を見て、更には様々に調べて知って、妄想や勘違いの排除を念頭に置いて整理しても、そういうあらぬ方に行ってしまい、
「既に前もって、そうなると言われてたじゃないか」
という、とんでもないレベルでの後悔を、私が感じてしまうだけでなく、感じ取る、把握する、気付ける側なのに、
力不足どころではない。自分は一体何をやっていたのか?
責めるとかいうだけでなく、後悔したからこそ自身にといかけ。
人間って難しいけど、同じ轍はふまないようにしよう、と。
気持ちを切り替えられるので、抱え込んだネガティブは深い所に押し込んで蓋をした上で、生活をする。
そうしたら、感じ取れる、気付ける部分が活きる、意識して無くても何かしらの役に立ててる、そういう結果も出てるから。
前向きに、少しでも、一歩ずつ。
たとえ、一時は精神病んだが故に折れたとしても、進んでいく=生きていかなきゃいけないよね。
そうさせるのも。
個人の感じとりのありえなさがあるからこそ、深みに到達出来るがゆえに、そうなってしまう。
うん。
怒られた、辛かった、苦しかったなら。
自分だけでなく、その時の記憶から、周囲や状況、流れという、相手が居るからこそ成立しうる環境面での要素くらい探れ。
それが出来ないなら、ただの人ですよ?
ということで。