流石にそれはもう何て言うか
ほーんとこう、繊細で敏感でいきづらいっていう、謎ワードのせいでしょうね。
HSPはエヴァのシンジを見ればわかる、というような人に出会ってしまい...。
流石に、それは、ない。
流石にそれはないですよ。っていうか、HSPという言葉についてだけでなく、エヴァンゲリオンの何を知ったうえで、シンちゃんがHSPなんて事を言う人が出たんだい?
あたしゃ、少し混乱しちまったよ...。
という事で、ちょっとつっこんで触れてみようかなぁと思います。
流石にちょっと、それは
余りにもおかしいというか。
HSPという言葉だけでなく、エヴァンゲリオンって作品すら余り触れてないんじゃないかな?って思います。うん。
シンジ君の場合、物凄く愛情に飢えてるんですよね。
単純に幼い頃に母を失ったというだけでなく、そもそも父も母もエヴァの研究をやってたので、出生後の愛着形成に問題があったんじゃないか?という疑念も生まれるし、だからこそ、早くに母を失った事からゲンドウとは上手くやる事が出来ず、確執を生んでしまう。
更には、ゲンドウぱっぱが自分の目的の為に、シンジ君を割とガチで利用してたという部分もシンエヴァで描かれる事になるわけで。
どうにもこうにも、複雑な家庭環境というのがあるんですよね。
もしHSPだったら、シンエヴァで語られたゲンドウの目的というのが、はっきりしないまでも父親が何か良からぬことをしようとしている事には、恐らく感づくと思います。
なので、もう少し水面下で策を弄する賢いキャラとして描かれてないと、HSPっていう概念からは辻褄があわなくなるんですよね。
というかさぁ。
どこで仕入れたんだろうね、シンジがHSPだなんて。そんな事を。
再度改めて
本がどうだ、動画がどうだは、もういい加減にして欲しいと言うか。
心理学の概念としてのHSPってどんなものだろう?
そういう視点というか。もう少し、興味をもって触れて掘り下げてっていうのをしないと、どうにも扱いきれない概念じゃないかな?って思います。
ポジティブ、ネガティブの影響もあるのですが、個人的にはそれを超えた上での、それは何故なのか?っていう哲学みたいなアプローチから、昔みたいに個人で只管考えなくても、探せば情報に巡り合えるので、
誰かの言葉に乗るだけじゃダメ
だと思います。自分で、興味や関心を持って学ぼうとしないといけないっていうか。色々と感じやすい分、自然とそういう方向にも動くんじゃないかなぁ?って個人としては常々疑問に思うんですよ。
なんでそんなに、自分の都合がいい所、自分が受け入れられる所で足を止めてしまってるのか?
その時点で、その辺に居る人と大差ない感受性でしかないって、示してると言っても過言じゃない位に、敏感さというのが見えてこないんですよね。
正しいとか、間違いとかそういう話でもなく、そもそも概念を提唱しようとした切っ掛けは?とか、そういう言葉や概念が出来るに当たり、流れみたいな物が突っ込んで調べて行けば見えてくるし、そこが見えれば今のブームって凄くおかしいものに見えると思うんですよ。
本当にHSP=感覚処理感受性が高いっていうのであれば。
環境感受性の説明だと、確かにポジティブな影響を受け取りやすい、ネガティブな影響を受け取りやすいという部分はあれど、それはそう受け取りやすいってだけで、それしか受け取れないって話にもならないんですよね。
また、一度形成されたらそれが崩れないというだけでもないと思います。
環境が入れ替わり、より多い物が変化すれば、それに応じて変化も見せるんじゃないかな、と。
まぁ、あくまで個人的かつ、素人の浅知恵感はなくもないですが。
本当にそういうタイプであれば、そういう実感も出来ると思うんですよ。
個人的に、自分を上げるのが苦手、評価するのが苦手というのも、世の中それで失敗してしまう人も観測できるし、日常生活のレベルでも、同級生にかまってちゃんとかいれば、人の振り見て我が振り直せ、という言葉が示すように、自分だけを見ていたらダメなんだなって感じ取るし、学べると思います。
そもそも、幼い頃から割と普通だった弟を通して、我儘を言えばどうなるか?ってのを学んでましたし、そこから幼いながらも色々想定して、先手を打って自分がやらかさないように注意してましたし。
というのも。
よく、大きい音が苦手って事でHSPって言う人居ますけど、個人的には感情的になった人の声の方がやっかいです。
単純な声量だけでなく、そこに怒の感情や、それから派生する攻撃的な意思を感じ取ってしまうので、身がすくんでたんですよね。また、強く発せられる事が多いので、その怒りの感情が鈍器の如く殴りつけてくる感じで、物凄く圧倒されてしまうんですね。
そうでなくとも、他者の怒りの感情って、それが去れば見えないところで愚痴をこぼすというように、大なり小なり受け取って影響を受ける様というのは他者からも観測出来てますし、そこからそうなるのは何故か?を追いかけて、可能性レベルとはいえ恐らくを作り上げたのちに、類似性のある状況から感じ取りや観察を経て確固に近い所まで固めます。
そう言うのを、表情を変える事もなく、また目の前の作業に集中してる様をみせながら、内側では色々考察だ、分析だ、掘り下げだやってるので、表に出した時には、
何であんたそんなとこまで気づいてるの?
という風になる。
うん。
そういう物っていうか、あくまで感受性が高いという言われ方を当てはめてるだけでも、それを普通レベルでサラっとやるからこそ、驚かれるわ、おかしいだ言われるわ、怒りは他者が他者にぶつける分には大した問題は無いんだけど、自分がぶつけられた時にはどうにもこうにもになるんですよねぇ。
まぁその、ね。
何がどうあれ、自分自身が相当な研究対象になる、みたいな部分もあります。そこを、学術的な方向から触れてみて、すり合わせを行い、自分で磨き上げるなんてのは、本で知ったとかそういう事しなくても、
感じとって、気付いて、自分からいつの間にかやってる
そういう物だと思うのだけど。なーんで、他者からの伝聞で足を止める人が多いのか?っていうね。
都合がいいでは止まらない
自分に取って都合がいい悪い、正しい間違い、そんな所では止まらないんですよ。
善悪二元論よろしく、どちらか一方ってどうにもこうにも苦手で、延々と触れて、調べて、観察して、考えて、分析してのループにも陥って、どこまで走ってくんだい?って自分で疑問を持つくらいです。
出来上がった概念でも、研究が継続されて新しい発見があれば、それによって上書きがされる。
目に見えて物理的に変化していく、様々な道具、家電、日用品という様々な物からすら、そういう流れを読み取って応用するんですよ。
何かの拍子に、元々あった物が改良され、さらに良くなる。
元々精神疾患に疎かった日本で、うつ病が切っ掛けかどうかは置いといても、認知され少なからず理解される様になったわけですが、それからでもDSMっていう基準も改訂されてますからね。
日本でも取り入れられてる、アメリカ発の基準ですけど。
そういうのを自分から自然と、知ろうとしに行くんですよ。何かしら感じ取ったりするもんだから、何故そう言う症状が?基準はどういうもの?みたいに、否応なしに違和感や疑問も感じてしまうので、払拭しようと自ら動きます。
そういう意味では、本で知ろうがどうしようが、そこから踏み込んで行きますし、年単位でそこそこ研究がされてたとしても、心理学や精神医学に限らず、様々な学問で、常に研究や成果、それによる変動すら当たり前のようにあるって気付くんですよ。
全部が全部完璧に、というのは流石に無理がありますけど、兎に角現実として見える物には、自分に取ってどうあるかだけでなく、そこから自分が感じ取った物を切っ掛けに、知って掘り下げようってのが止まらないです。
下手すると、原理原則なんてのは、人間社会を超えて、自然とか世界とか、宇宙とか、止まる事なく突き進んでいくような感じなんですよ。
それこそ、感じとり過ぎてしまうからそうなってしまう、というか、ね。
そして、そうある様は兎に角おかしく見えてしまうので、周囲だけでなく他者と触れ合う時には、自分でコントロールして、出す出さないも常に取捨選択をしながら生活してますが、それでも何かしらポロっとでてしまうのか、何でそんなに、何でそこまでみたいに不思議がられます。
え?なんかこう、違和感なり疑問なり感じたら突き進まない?
って返すと、気にはなるけどそこまでしないって、相当数な人に言われるのも当たり前なんですね。
そういう部分からも出る杭になりますし、今ではあまり見なくなった5人に1人なんてのも、実際にどうあるかは別として、火のない所に煙は立たぬ、程度にはナルホドしてしまうくらいです。
そして、自分にとってはそれを当たり前のようにやってるからこその、普通になるのですが、他者に話した途端普通じゃない、普通どころかおかしいってね。
そう言うのの連続なんですよ。
あとがき
なんかこう、歯切れの悪い終わり方な気もするけど、共感云々まで書き始めるとどれだけになる事やら...って自分で引いてしまったので、ここでストップです。
流石に、エヴァのシンジ君を例に出された時は、ザ・ワールドでも襲って来たのか?ってくらいに、時が止まったと言うかなんというか。
5人に1人ってのを見なくなったのは、エビデンスどうこうより、より多くの人が本だなんだと受け入れるのに邪魔だから、みたいな部分もありそうかなぁ、というのも感じなくもなくて。
あれほど、昨年には目にしてたのに、今は「敏感で繊細で生きづらい」という部分しか見なくなったんですよね。おかしいなぁ?って程に。
合わせて一緒に書いてたりする内容多かったのに、何ででしょうね?ってチクチクやりたくなるくらい。
ただただ、知るというだけでなく、興味をもって自発的に触れていくと言うのも大事だと思います。
あとは、必要以上に受け入れ過ぎない。
そうしないと、ため池の水になるんですよ。とどまってしまったが為に濁ってしまうみたいなね。
また、個人的には、他者の感情を取り込みすぎてて、自分の物として消化し過ぎという風に、カウンセリングで臨床心理士の先生から言われたわけですが、自分がみた知ったに限らず、他者が何かしら表現してるとそこから何かを感じ取って掘り下げに行くんですね。
なので、深く処理するってのは思い悩むとかそういう話じゃないと思いますよ、なんて簡単に言えてしまう。
物に限らず、何事にも切っ掛けや流れみたいな物があるので、それを追いかけるかのように走り出すんですよ。
で、敏感、敏感いうけど、その辺の人なら捨て置くレベルでも、兎に角反応して突っ込んでいくから、敏感すぎるってね。
そういう話にもなる、と。
また、ちょっとしたイライラとか、そういう人の感情の沸き立ちでも、それ以上になったら攻撃されるされない関係なく、被弾する様な物だと感じ取り過ぎるだけでなく、避けようとしたりするんです。
なので、繊細とか言われなくもない、と。
ネガティブな物って感じ取りたくも、受け取りたくもないので、塞ぎに行くんですよ。それが、喜怒哀楽なら、怒と哀です。なので、悲しんでそうな人にも敏感に反応して、相当に配慮したり、取り除こうとしてあげたりするから、敏感だ繊細だってね。
もうね。
そういう言葉すらすっ飛んで遠くにいるくらいにあるから、全部まとめて、お前はおかしいって言われてるような感じです。
ええ。あくまで個人的に、ですけどね。
まぁ、そうやって自分で経験、体感、色々してるし、それを情報や知識、学術的な内容ともすり合わせるだけでなく、自分なりに考えるんです。
うん。
流石に今回はもう、なんていうか、すっごい呆れたっていうか、脱力したって言うか、勘弁してほしいと思ったと言うか。
色々ごちゃごちゃしまったので、こういう事を書いてみましたよ。
ホントこう、もう少し世界を広く見て、客観的=主体や主観から離れて、色々考えた上で触れてくれないかなぁ。HSPに限った話じゃないけど。
ということで、最後にぼやいて、ボヤッキーになりつつ。
今回はこれにて。