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口先マシンガンという謂れ

そうある自分としては、幼い頃から大して変わってない部分。

周囲から見れば、黙るようになった分、言葉数が減ったように見えたかも知れませんが。

今は亡き母から、

あんたはホントよく喋る

と、言うことで、口先マシンガンとか、口から生まれてきたのかねぇと言われてた時期があります。

とはいえ、これは単純におしゃべりさんというだけではなかったようだ、というのはココ数年での通院で、成人知能検査やカウンセリングをやってみて見えてきたかなぁ、という感じもあり。

精神医学だけでなく、心理学的な部分も時代の流れで変わってきてるので、個人としては今になってようやくという感じも覚える事もしばしば。

とはいえ、今回は口先マシンガンという謂れと、言語性IQ云々から、言語化という部分について、話してみようかなぁと思います。

ちなみにTOPの画像はキツツキです。

すごい勢いで頭振って木を突きますよね。そんな感じで、自然ともう言葉が出てくる、色々言葉にできてしまってるから出てしまう。

それ故に口先マシンガン(笑)という比喩の為にキツツキを選んでみました。


厳密に言うと感受性だけではなく…

と、言えてしまうというか。

時折、記事を見返してみると、

書いてる時は、元々が違いすぎてて伝わらない、それ故に言葉を尽くして説明しようとするという部分が影響して、言葉数が増えがちだったりします。

そして、見返してると、”アチャー、言葉が多くなりすぎてる”と真逆の気付きもするくらい。

こういう部分も、通院やカウンセリングで色々指摘されたことで見えてきたと言うか。

成人知能検査の結果として言われた、数値化出来ない部分を持つという指摘の言語性IQだなんだの部分。

カウンセリングで指摘された、現実を深いところで見つめすぎてると言うところと、自動思考が相当な勢いで働いてると言う部分。

そうなんですよ。

口先マシンガンになってしまってたのは、話してるだけでも次から次に言葉が出てくるだけでなく、自分自身としては話の流れに沿ってるわけですが、言葉数が増えすぎて、同じ様に処理できないようだとおっつけない(かもしれない)。

個人としては、会話として普通レベルだったのですが、そういう部分を持っていたためか、周囲からはよくそんなに言葉が出る、よく喋るという、見え方聞こえ方になってたという。

多分、そんなとこだろうなぁ、と思います。

いやー、自分でも時折不思議にはなります。

何でこんなに言葉がホイホイ出てくるのかな?と。

そこが時折悪さをするというか。

私の方からすると、周囲の話し方は説明不足にもほどがあるという部分を、もう見てて分かるほどという状態にあるくらいなので、どうしてもこう言葉が多くなると言うか。

簡潔に言ったところで伝わってないから質問される。また、自身が逆に簡潔に言われ過ぎて何がどうなってて、どうして欲しいのかわからないという事があるので、質問して聞き出すという事も多く。

そこがもう面倒でもあるので、予め言葉数を増やして状況や流れも説明しつつ、自分が言わんとする部分に触れる事で、伝わらないが故の質問を減らす。

言い換えれば、余計なお世話にすらなる、っていうね。

それほどにこう、自然と言葉が浮かんでは表に出てしまいますし、気づいてても意識できなければ抑えられない。

とはいえ、相当に難しさがあります。言い方悪いかも知れませんが、感受性のおかげで察せる側でもあるので、出来る側がやった方が良いという事も多いのですが...。

流石に、

もう疲れたよパトラッシュ...という感じで、精神病んで長い事引きずってるので、流石に言ったら言ったままを受け止めて欲しいというか。

違うからという理由からの色々って大変なんですよ。


記事を書いてる間に...

休憩を挟んだわけですが、珍しくしばらく会って無かった友人から電話があったのですが...。

もう、説明するの、面倒くせぇ...

と、言わんばかりというか。既に、精神病んでて長いし、誘われても出かけない事が多いわけなので、まだまだ大変なんだなで済ませてくれればいいのですが。

まだムリ?でれない?

渋ってる間に気付けよ!病んでるんだから!知ってるだろ!

言えれば楽なのですが、受け止められない人に言ってしまうと無駄に衝突を生むし、感情をぶつけられて自分が痛い目みるだけなので、抑えつつ説明もしてました。

ちょっとこう、そういう部分でのイラっとした部分が声に出てた。

自分は自覚できるけど、思いの外気づいてもらえなくて不思議。

まぁ、何はともあれ、何かしら切っ掛けがあると自身が揺れてしまい、感情的になってしまう事から、まだまだ先は長いのだなぁ、と実感すらもして途方に暮れたと言うか。

色んな物を感じ取り過ぎる分、ストレスというのもやっぱり多くなります。なので、どうしてもうまく接する事が出来ないという事があるんですよ。

感受性がそれなりにあって察する事は得意な方。

そうは言っても心理的、精神的な不安定さがあると感情が揺れやすいですし、感情が揺れると邪魔をします。

そして、その感情のゆれのコントロールが一番骨が折れると。

し過ぎた結果が精神的な病みでもあり、それに対して真面目過ぎた、それ故に気を遣い過ぎたと言われる位なのに、そういう話になってないときは気づいてもらえず、配慮もない。

うーん?

そういう状況に未だ接してしまうから、どうしても言葉数も増えると言うか。

ある意味、抑えすぎてた分が抑えきれなくなってるという部分もあるので、普段抑えてる物が、記事になると出やすいのかなぁという認識もなくもないです。


まぁ、難しさは色々あります。

それこそ、感覚的。

Wikipedia読んだ程度なので、大したレベルじゃないわけですが、そこは不思議と感覚的に抑えてるっていうんですかね。

良くも悪くも、オタクだ、性別だ、なんだかんだが先んじて経験してるだけでなく、言葉にしてそうある当人として説明してるのに、伝わらない。

でも、スパンの差はあれど、時間が経過する事で、説明した事が受け入れられるようになるという経験をしてるだけでなく、結局そうなった時に、だから言ってるでしょうに...と何度となく実感させられてしまう。

そういう経験からの悪さとか、難しさというのもあるんですよね。

すごく言い方が悪いくなってしまいますが、もう既に経験してしまってる事が、解き明かされてるだけって部分も無くも無いです。感受性に限らず色々と。

医師ではないので、迂闊に触れられないですが、パーソナリティ障害なんかもおおよそ、感じとりや察し、気づきという部分で、人の悪い部分として認識はしてたものの、感情という物の難しさや、人間社会で生きていくという部分から触れずに居た部分で。

それが、こう、解き明かされただけでなく症状になってるというのも。

妙な感覚を覚えます。うん。

ホントこう、感覚でそういうのを抑えるって感じもあるんですよね。だからこう、感覚処理感受性って言葉を見た時に必要以上に当てはめてはいないとはいえ、

あ、これだわ(笑)

みたいな、ね。

深い処理がどうこうとか言われますけど、ホントこう読むだけでおおよそ掴んでしまうみたいな事もあります。小学1年の時にビデオデッキを購入しましたが、取扱説明書読んで、操作を自分に落とし込んで説明してたのって親ではなく、私でしたからね。

こういうビデオデッキなんかは、操作をして、結果が出るという、現実としての認識が働くので、幼いながらも、あんたよくそんなサラッと読んだだけで、みたいな感じでした。

ただ、それが頭の中で発生してる、それを説明するとなると、途端にそういう言語の扱いという部分の差なのか、思いの外うまくいかない。

真面目過ぎ、いや違うという何度となく経験した部分も、そういう部分が一致しなくも無いんですね。

そうある本人が掴んでるだけでなく、伝わる形で説明してるのに、自分と違い過ぎてるから、それはおかしい、ありえない。

共通する認識を少なからず持ててる人として、それなりに付き合いがある、就労支援での相談担当の方がいるわけですが、やっぱりこう、

生まれるのが早すぎましたよね。時代を先取りしちゃってるっていうか(笑)

みたいに、理解が無いだけでなく、抑え込まれる時代からそうあって、自分で説明出来てしまうのに、時代が変わっても苦労が変わってない。

余り言うべきじゃないかもしれないですが、患者としても出来すぎてるので、知ってる事、学んだ事って敢えて話さなかったりします。

こういうのも難しさがあるんですよ。

突っ込んで学んでないからこそ、柔軟に落とし込んで扱えてる。

そういう部分にも感受性が絡んでるってタイプなのですが、口にして言うと、やっぱり良い顔されない事があったり、反応がされないので無視されてるのか?と疑問を感じつつも聞けない、言い淀むという事も相当に多いんです。

こういうのも、会話をしてる中だけでなく、診察室にある空気、主治医が醸し出す空気、雰囲気という部分からすらも察してしまいかねないというか。

どうしても、幼い頃に怒りで抑え込まれたのがネックです。

言おうとしても、即座に幼い頃のその怒りをぶつけられる記憶が掘り起こされ、ストッパーになって自然と止まってしまう程。

うん。

ほかにも、ね。知らぬが仏、という言葉があるように。

自分自身がもう、正にソレと言わんばかりに、知り過ぎてるという部分もなくもないのです。

ネットでよく言われがちな、嫌なら見なければいい、というのもごもっともとも思います。

でも、それが出来ない=見ない、知らないを振りでしてると、それが不安の増大に繋がって、今度はそれで再度不安障害になり、うつ病と不安障害を行ったり来たりさせられかねない。

と、こういう話も、突っ込み過ぎかもしれないとも思う。

でも、そういう感受性についての部分が、良くも悪くも表に出てきた以上、なんていうかな。

話したい、っていう気持ちもやっぱりあるんですよね。

それ程に苦労したと言うか。

この、感じすぎてしまう感覚は無くしたい、と思うくらいです。

受容だなんだというのも、先んじて感じてしまってるのか、相手の反応に合わせて、感じとれなけれくとも、それを悪いとは言わず、その状況を受容する、受け止めるという感じで、私の方が踏み込まずに流してしまうんですよね。

伝わってないけど、伝わった事の様に見せかける。

幼稚園~小学校低学年の間に、相当にそういう、自分ではない自分になる=周囲に対して演じて、そうあるように、求められるようにと在った事のツケ。

何はともあれ、自分自身が未熟とは言えそう言う行動をし始めて、し続けたツケを今払ってるのかも知れません。

そうしなければ、受け止めてもらえないどころか、子供のくせにと怒りをぶつけられるばかりだった。

とはいえ、相談に乗る時に自分が言う、何がどうあれ行動するのは相談してくる側自身。

それ故に自分で判断して、行動して、最終的に責任を持てるように、とか言ってたわけですが、それは自分も同じくなので、難しさをかみしめながら。

楽になりたいけど、楽を先に取れば、後々苦がくる。

負担が多かろうがどうあろうが、人に言ってしまった以上、それが過去だとは言え、言ったからには自分自身が行動で示さなければいけない。

真面目過ぎなのかもしれないですが。

苦労しようが、やっぱり結局自分の事は、自分が向き合う。

そういう事は必要なんですよ、ね。


あとがき

どうしてもこう、自然と言葉が出すぎてしまう。

そもそも、もう脳がこう、そういう状態になってしまったというか、口から生まれてきたの?と言わんばかり、それ程に喋る=言葉が出てくるというのは、難儀な物......と、自分で言うのも変ですけどね。

口先マシンガンという、過去の謂れを思い出したので、記事化してみたら、これまた言葉の数がとんでも無い事に、なってしまいやがりましたよ。

とはいえ、これでもまだ書き足りないというか。

分けて書く事になりますけど、そういう所以というか、頭の形、後頭部の形、それに悩まされるも故合って脳神経外科を受診したら、頭の形、特に後頭部が理想的で脳の発達がどうこうと。

小学校卒業前の経験が、不思議と引っかかって記憶に残ってたけど、それが今ようやく...。

という、繋がりがなくもない話題もあったりします。

あくまで可能性。

あくまで個人の経験。

突っ込めるほどの学が無い。

でも、自分が自覚してる事って、あとあとそういう物っていうね。相当後になって理解され始めるって事が多いです。

現状での精神疾患の部分も、中学ごろには兆候みせてましたし、でも若いから故に無理して動けてた。また、そうしてるうちに、ただでさえ色々違いを言われがちな分ストレスが捌ききれずに溜まる一方という生き方になってしまい。

うつ病が認知され始めた頃って、実を言うと真逆と言わんばかりに、薄っすらとした自覚があるのに、

自分はそんなはずはない、今仕事をやめるわけにはいかない

って、ねじ伏せたんですよね。それ程に、安心というだけでなく、周囲からの受容がない連続だったので、自分で立とうとし過ぎて今がある、と。

それ故に、誰かに伝えたいから始めたnoteも気づけば、溜まりきって捌ききれないストレスを、言葉にして吐き出してるという感じも否めないです。

1歳時点で甘えるより、弟をお腹に宿した母の方を優先して、自分は大丈夫だったらしいので、三つ子の魂百までというか。

甘え下手も過ぎるんですよね。

と、あとが気も長くなったので、この辺で。

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