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そういえば最近夢を見る 5
眠りと夢、そして感受性。
久しぶりに夢を見るようになった、という自身の状態から色々振り返ってみてもなんというんですかね。
いや、それが自分の普通だったし…と反論してた、他者の言い分。
よくそんな状態でまともに生きてこれたよね?
というのを、改めて実感してしまうというか。
過ぎ去った過去、乗り越えて何とかやってきたこと。
だからこそ、そうあるのが普通だとも言えてたのですが、改めて文字化してみると、少しばかり呆れ笑いをしなくもない。
という感じですが、ようやく今現在というか、最近の状態も話せる所まできたかな?という感じもあり。
その辺も少し触れてみましょう。
割と直近だと
今までと比較すると、自分が自分に対し、少なからず優しくなったかも?とは思います。
今年に入ってからもしばらくは、追い立てられるような、何かに駆られるような、何ともいえない緊張感みたいなのもあって。
不思議と安心できないからこそ、気持ちが沈んだり、逆に逆だったりという事は多かったです。
どうしても、もう起きていられないというのも、どちらかというと現実に対しての見向きがもう苦痛、それしかなくて逃げ込むように眠ってましたし。
それが直近だと、自分から進んで休めるようになったというか。
これはもう、休んでたほうが良さそうだなぁ。今まで無理してきてたしなぁ。
という感じにはなってます。
また、相当に直近の話だと、詳しくは伏せますが安心出来た事があり、それが影響してるのだと思います。
まぁ、ようやく安心を少なからずえることが出来た、というところでしょうか。
それが結果として、久しぶりに夢を見るような眠りにつくという状態に繋がったのかなぁ、と思います。
それまではこう、眠るといっても、やっぱり違いはあったんですよ。
うん。
それこそ逃げ込むかのように
まさにこの世は生き地獄。
そういう表現をしてもいいんじゃないかなぁ?というほどに、不思議とこう落ち着けない、安心できないというだけでなく。
周囲との違いが過ぎたものの、それは悪く働くこともあったので、長らく自ら否定して、認知を曲げるという生活だったのは確かです。
また、そういう状態なのに、主観と同じレベルないし、それ以上に客観が働くことから、自分の気持や意見に蓋をして、所謂社会常識とか一般的な通年で生活をするという状態で。
就労支援のB型に変えて、そこで少なからず触れ合ってた所員さんからも、無理をしないようにとは言われるものの、幼い頃はそれでも無理は出来ていたという現実が重くのしかかって、自分にムチを打つような状態でした。
なので、眠るとはいえ、もう無理!これ以上は無理!って感じで、逃げ込むように眠りに付いてたんですよね。
だからこう、精神的な負荷というのが、自分が自覚してる以上にあったのかもしれません。
学がないので詳しくは言及できませんが、可能性としてなら、脳機能や精神状態から自然と自身を守るために夢すらも見せなかったと言うか。
そんな状態だったと思います。
それほどにね。
色々受け流せなくもなってたっていうか。
そもそもが自分が見せてしまう、感受性が絡む部分を、違うという理由だけでとやかく色々言われるわけですから、何かしらあればすぐ不満をいう、正義づらして叩くという、人の世の有り様は、ね。
とにかく、トラウマというか、過去の記憶を色々ほじくり返されるわ。
そもそも、自分じゃな自分になるとした時点で、少なからず自分自身を切り離してたという部分もあって、どうしても幼い頃の自分が膝を抱えて泣いてる姿というのも思い浮かぶ様な状態でした。
また、性別の部分でも、割と強引に自分の本音を自分自身が押さえつけてたという部分もあって、通院時には相談してましたが、自分が少なからず分裂してるような感覚も持ち合わせてたんです。
そういう診断はされなかったですし、あまり詳しくも聞かれなかったですけどね。
そこにこう、何を言っても否定される、という積み重ねがのしかかり。
もう、起きてられねーです。
で、ベッドに逃げ込むように眠ってた時期というのも、結構長かったんです。
良くも悪くも繋がったという事
まぁ、なにはともあれ、溺れる者は藁をも掴むというんですかね。
感受性という言葉が切っ掛けで、良い方にも繋がったわけです。
ようやくというか、なんというか。
出すに出せない、それでも個人としてはそこまで掴んでる。
後知恵バイアスなんてのもありますけどね。
そういう物を持ってる個人としては、全部が全部そうじゃないとしても、そういう抜けた感受性を持ってる人に対し、否定をしようとする概念だとも思います。
こういうのがあるから、表に出せずに苦しむというか。
なにはともあれ、個人として掴んでる部分に対し、現実がそうあるような動きを見せてくれたと言う部分が、現状の少なからずの安心感と、それからくる眠りの質の変化、そして夢を見るという部分に繋がったのかなぁ?
あくまで可能性、あくまで推測。
常にそうやって否定しては居るものの、事実は小説より奇なりと言わんばかり。
頭の中を見せられるなら、見せてみたい程に、妙な感じ取りをしてしまうんですよね。
そして、それが何でか不思議と、時間の差異はあるものの、後々になって現実として知らせてくれる、思い知らされるという。
うん。
かと言って、予言とか予知とかそういう事は出来ないですからね。
証明もできない不便さというのもつきまとってます。
そもそもとして、意識して使いこなしてるんじゃなくて、そういう現実として作用するというのは、日常の中の一瞬んで、あれ?って感じで、自分でも流してしまうほど。
でも、それが現実になった途端、ショックを受けて思い出すっていう、ね。
何ともいえない不思議さがあるんですよ。
まぁ、そういう部分を話しすぎると、非ぬ方向に勘違いされるので程々にして。
なにはともあれ、夢が見れた。
それは、妙な感動を呼んでくれるとともに、想像以上に自分は安心した状態になってたんだなぁ、という、自分のことなのに客観視が過ぎるという感じ方もしたわけなんですよ。
そこには、奇妙さというか、不思議な感覚ってのがあります。
何ともいえない、こそばゆさっていうんですかね。
また、そのこそばゆさみたいなものを感じてしまうから、自分自身が未だにブラックボックスだ、なんて言ってしまうもので。
なにはともあれ、あれですよ。
違うって言いつつ、自分が同じものを感じない、そういう人は少ない、出会ったことがないとか、そんなのを当人を前にして言い訳がましく言われるような状態は、少しでも減ってくれるといいなぁ、とは思います。
何がどうあれ、自分自身が否定されるようなものですからね。