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そう言えば最近夢を見る +(ぷらす)
終わりにしたと言いつつ、また夢を見たわけです。
起きてすぐトイレに行ったので、生理現象が重なって体が起きようとしてた状態だったのか、どの様な夢を見てたかが把握できちゃった。
そうあってしまったので、ちょっとこうもう少し踏み込んだ部分に触れるのもアリかなぁと言う思考も働いて。
今こうしてる。
そんな感じです。
以前はしてなかったこと
HSPという言葉とそのブーム。その有様を目にするまで。
なので、割と2年前までずっとそうしてたこととして、
・敢えて感受性として触れてない
・気づいてる、察してるではなく、あくまで偶然とか、多分?で誤魔化す
・誤魔化すために、自身には強く偶然、可能性、多分と強く意識する
感受性が高いと言う表現も、
兎に角、おかしい、ありえない、普通じゃない、一般的じゃない、他色々。メンタル病んでて精神的、心理的ダメージを受けたという話であっても、その辛さを口にしよう物なら、されてしまうのは何故か否定。
違うだ、おかしいだ、そもそも個人個人違いがあるのに、何故個人差、個人の違いの話が出来ないのか?
違うからおかしいというけど、その事で貴方に迷惑をかけたのか?
当事者の意見に対して、話を聞いたがわの価値観で意見を述べてイチイチ否定ばかりするのか?
という感じで、ドッカーン!と爆発した結果、感受性が高いんだね、と。
自分と違う、でもその違いはおかしい。
もう沢山だ!!って爆発した先で言われてた言葉であって、あくまで感覚処理感受性が高い、というHSPという言葉に触れるために、合わせるようにするという狙いからも使い始めた表現だったりします。
うん。
狙ってそういう事やってんですよ。
保守的、という言葉、それが示すもの
どうしてもこう、政治方面で、保守だ、革新だ、リベラルだと聞かれてしまうので、おおよそ自身に当てはめてる人は少ないと思いますが。
保守的=今までの状態を維持しようとする
という事なんですよね。
で、真面目すぎ、気を使いすぎと、言う個人としての表現については、実は書いてない実情という部分もあったりします。
そうあるから、もう少し楽をしろ。
そうあるから、もう少し馬鹿になれ、不真面目になれ。
こういう言葉が、ね。何でかくっつく事があったんですよ。
でも、それに対して私の方は何度となく、
真面目だと見てるのはそちらの見方、価値観であって、自身の中には真面目にしようなんて気持ちや意思はまったくない。
そもそも言われるほど、指摘されたことや私の行動が真面目だとは思えない。
だって、自覚が一切ないのだから。
という答え方をしてました。実際にそうとしか言えないので。
また、結局そういう、あとに続く言葉=要求があるというのも現実でした。
その、要求があるという部分をなぜ書かなかったか?というと。
もう、長いことそうあったからこそのクセにすらなってる部分だったりします。
良くも悪くも、自分にとって都合がいい時は逆に”評価する、感謝する”になるんですよね。真面目すぎだ、気を使いすぎだ言われる部分って。
でも、それが相手に取って何かしらの問題があるという時には、指摘をした上で、楽だとか、馬鹿になるだとか、訳わからない要求が入っしまう。
そしてその何かしらの問題に付随するのが、保守的。
現状を維持するためには、都合よく扱える部分は扱うけど、そうじゃない時は楽をしろ=抑えて周りと同じにしろと。
そして、この保守的という部分は、日本の村八分的な部分があるというか。
悪さをして迷惑かけた、どうしようもないほど苦労したと言うなら、周囲から注意して変えさせるというのはアリとは思います。
でも、それだけでなく、楽をしたいがためにでっち上げて、讒言を行ってという負の部分もあるのが村八分でもあり。
出る杭は打たれる、というのも、下手をすると自分たちには邪魔だから排除しようみたいに、どうしようもないほどやれやれという保守的な部分からのものだとも思います。
まぁ、面倒なので、敢えてスルーしたり避けたりしてましたけど。
無意識からの、咄嗟を真面目すぎと言われたらどうしようもないですよ。
どうしても伺える、保守的なありよう
なんかこう、夢の話のはずが。
どうしても、責められるというか。そういうつもりはないと言いながら。
こちらは指摘されて初めて気づくほどに無意識。その行動に、真面目さを付けてるのは周囲の誤解なわけで。
その誤解を問いてくれないまま、要求を飲めというのは、まさに二段構えなんですよね。
話を聞いてみたら思いの外、とんでもない答えが返ってきた。自分たちと違いすぎる。
だから自分たちと同じになるようにしよう。
よくある、政治的、主義主張の部分での正しい間違いだけでなく、何かしらあった時に当事者から詳しく話を聞いたわけでもないのに、感情からものをいう。
革新だ、リベラルだいいつつ、根底を覗こうとしてみると、結局「自分にとって都合の良いことの維持」という、保守的な部分って見え隠れするんですよね。
ほんとこう、対義語というか、対がある言葉に対して片方だけを自分自身に当てはめすぎ=言葉や概念としか向き合ってなさすぎなのでは?と思います。
現状を変えようとするのに幅広い見聞を持って、考察するわけでもなく。
主義主張があるだけでなく、何かしらの集団に属してるからこそ、その枠に収まろうとして言及する。
そうやって、同じ誰かと何かしらやるという事の何が革新だというのか。
誰かしらと同じ、同じ意見を持ってなんてのは、同じ人と同じ状態を維持してるだけと言えなくもないんですよね。
そうなってしまってるから、革新がうまく機能しない。
価値観が入れ替わるだけで、マジョリティが席巻する現実。
これが変わらないまま続いてるんですよね。今の日本って。
まさに、ザ・保守的。
ではないですかねぇ?
嫌だけど、思い出されてアババババ
口うるさいし、言葉数多いし。
何やってんだと、自分としては思うこともあります。
でもねー。
やっぱりこう、辛い辛い言ってるばかりだと、それを聞かされてるとイライラして怒ってしまう。
自他関係なく、そういう状態を何度も観測してきたので、せめて自分だけでも辛いとは言わないようにしようとした結果。
色々溜まりきってしまってる。
所謂バイオリズムではないですが、周期として、どうしても悪さする時期みたいなのが、1ヶ月ごとに来てしまうのも、なんとなく把握してます。
それをどうにかしようとしたら、本当に何もしないをしなきゃいけない。
言いたいことを言えばいいと言われもするんですよ。
でも、正直に話してしまうと、過ぎてしまってると受け取られるのか、言いたいことを言ったことに、それはおかしい、間違ってると抑えつけられる。
自由を取るのか?
周囲や他者とのバランスをとるのか?
結局、違う誰かが言ったことをまんま行動に移すと、失敗して痛い目をみるだけなので、ストイックすぎとかすらも言われかねないような、行動をとるしかない。
そんな時に、こうね。
感受性という部分にメスが入ってるだけでなく、踏み込んで色んな知見も出てきてると言うのを知ってしまったわけで。
堰を切るかの様に、溜まってたものが吹き出すのも、そりゃ当然。
おそらくねー。
おおよそ、HSPという言葉を使って表現してる人も、自分と違いすぎてておかしいって見てる人居るんじゃないかな?って思います。
否定しようにも、払拭しようにも、Wikipedia見るだけで、自動思考働いて脳が勝手に一致させていきますから、どうしようもない。
だから、敢えて自分は違うという事にして、否定をしてたりするんですよね。
なんかこう、矛盾した事やってるような状態にもなるので、呆れ笑いとか、あーあーひていしないとーみたいにね。
なってしまってたんですよ。
そうじゃないとこういう感じで、口うるさくなってしまう。
違いすぎるから、及ばない人は排除しようとすらするくらい。
違いすぎてておかしい、あり得ないというのは、過ぎたる物を持った側にも発生するんですよね。
そして、少数であるがゆえに、敢えてわかってても、自分の持ってるものは過ぎたものとしないように、目を背けてたくらいですが、こういうのって、
自覚ないと自分から否定すらも出来ない。
幼い時点で気づいて、母に問うたら後押しを受けた。
そこで言われたのが、一番自分を見てて、親として理解してくれてそう、そういう言動、思考、共感、見解の一致、他色々積み重ねてた母親すらも、
親である自分も気づいてあげられないから
でしたからね。自覚どころか、一番見てくれてる母親の後押しを受けて幼い頃から向き合ってきた。
くどいようですが。
それほどにこう、色々ありすぎたどころか、今となっては体調の悪化だったり、夢見にすら影響を及ぼしてる。
そしていくら当人がアップデートしてるとはいえ、年齢による凝り固まりとそれによる頑固さってのは、多くの人が示すものなので、年齢が相応になってる以上、そういう穿った見方すらされるというのも、さもありなんと見て感じてしてたりします。
うん。
でも、そういう年齢で物を見られるというのは、昔から変わらない保守的な人の有り様でしょ?
そう、切ってしまう事すらサラっとやりかねないからこそ、自分自身が抑えるという矛盾を今になっても続けてる。
という状態だったりします。はい。
あとがき
まぁ、こういう記事だけだと、実際に対面してというのは叶うものではなく。
また、感受性って自分が言うのもなんですが、日常での有り様を見てないことには、そのおかしさって気づきづらい、伝わりづらいものだと思います。
それほどに、何度となく見せてるのに。
幼稚園に通い始めて、社会人からドロップアウトするまで。いや、ドロップアウトして精神病んでても、話を聞いてもらえない。
そんなんじゃ、寛解にすら至れないんですよね。
否定されるという不安が常につきまとってるので。
そして、安心を得るというのは、人間として生活する以上、これまた一人では到底出来ないもので、誰かが受容してくれないことには、信頼関係が構築出来ないことには叶わない。
でも、信頼関係という部分では、感受性としての察しというか。それこそ、感覚的に処理しきる感受性が邪魔すらしてしまう。
ほんとこう、叶うことなら、相当に時代が変わり切るまで、眠りに付きたいって感じなのは否めない。
わけですが、それは難しいとも思います。
保守的な部分の悪さを、今回夢見を通してつつくマネをしたわけですが、なにも悪い部分ばかりでもなく。
集団を維持するためには、どうしても必要となる部分です。
革新的に変えていくことも全てが良いというわけでもなく、狙いや意図という見えない部分を探らないことには、後でしっぺ返しが待っていたという現実が訪れるのも必定で。
結局、過ぎたるは及ばざるが如しだったり、彼を知り己を知れば百戦して殆うからずだったりと。
古くから言われてる事が、当たり前のように今でも通用するのも、人の世っていうんですかね。
なにはともあれ。
いい加減こういう内容を書くのやめようかなぁ、と思う、反省する、そういう事もあります。
ですが、やっぱりこう長いこと我慢してきたり、無理やり捻じ曲げて来たりもしてきてるので、うまく御しきれないというのも否めず。
人と違うものを持ってしまうってのは、面倒くさいもんですよ。
自分の事なので向き合いはしますけど、自分だけだとやっぱり限界があるんですよ。
どうしても、ね。
という事で。