個人的に思う、ミソな部分
ミソというか、ここがポイントかなぁ?
とりあえず、色々感じやすいからこそ、ここの区別が出来なければ...というような、ポイントってやっぱりあります。
感受性って言うと少しわかりづらい。
感じやすいって言うと分かりやすい。
でも、この”感じる”に対して、ある程度自分がしっかり区別出来なければ、思わぬ落とし穴にハマってしまうもの。
昨年からある、HSPという言葉とそのブームなんかは、目に見えて落とし穴はまってますよ?という感じで、見える側としては、言葉に乗ろうとするから言葉と共に落とし穴に落ちてるんだけどなぁ...という感じだったりします。
まぁ、今回はその辺の話をしてみようかなぁと思います。
そして、お約束をドン。
感じるって結局何なのでしょう?
これ、なんですよね。ミソの部分についてというのは。
感という字が付くもんだから、どうしても文字が含まれる、感動、感激、感嘆という感情の動きの方にいきがち
でも、そういう感情の動き、言い換えれば情動的な心や精神、思考の動きというのは、
何かを感じ取った→それを処理した→その結果から感情が揺らされた→感情として認識する
という感じで、痛みを感じるというように、直接体が刺激を受け取ったが故に感じる、とは違う物だと思ってます。
痛覚が刺激を感じる→それを処理する→痛みとして認識できる
そういう感じで、
刺激を受ける事で、その刺激から直接認識する物
受け取った刺激を処理し、その処理した結果に対し、更に感情が揺らされ認識する物
という様な区別が出来る物かと思います。
うん。
まぁ、そういう部分をひっくるめて、「感じる」とまとめる事が多いと言うのも実際だと思いますが、それは、
「感じる」のは一体何故?
何がどうあって、どう作用して感じるのか?
という部分は、当たり前すぎて見向きされなかった、してもおかしなヤツと言われてたのが今までだと思います。
そうあった今迄に対し、疑問を払拭しよう、解明しようと動き出した人がいて生まれたのがHSPという概念。
ですが、それ以上に今では更に深掘りするかのように、
人間生活をする上では、様々な環境に居ます。
それ故にその環境から色んな影響を受けるんですよ。
例えば、自室だと気が入らないのに、学校や職場、ジムや〇〇教室という環境に行った途端、様々な影響がありうるので、気が引き締まったり、集中力があがったりする。
こういう経験ってあると思います。
それが、心理学でいう所の環境感受性。
こういう事になろうかなぁ、と思います。
そして、それが感じるという事の正体に近づくための、何か。
感じるとは何か?と見出しを付けましたが、まだまだ研究も続いてますし、続ける重ねるする事で、新たな知見が得られ、今までの物がひっくり返ることすら有り得ます。
そう、感じるとは何なのか?は、現在まだまだ追及され続けてるんですよ。
こういう事を書いた切っ掛け
この記事を書いてる時点では、自身が抱えてる精神疾患の方での通院があったのですが。
たまたま主治医と話す中で、そういう話が出たんですよね。
「ヨガをやってる人が、自室でやるのと、ヨガ教室でやるのとでは、気持ちが違ってくる」
主治医の方からそういう話が出た途端、私がピクっと反応して、環境感受性という概念を話してみたんですね。知ってる限りで。
そしたら、ナルホド...と納得してもらえました。
確かに言われてみれば、色んな事で色んな環境に移動すると、気持ちが色々切り替わる、何か作用があるというのは、言われたら感じる事ができる、と。
うん。
そういう経験を今日したわけですが、そこで気付いた事があったんですよ。
今までは、私という感じ取りやすいけど、そうそう居ない側からのアプローチだったので、伝わりづらかった、伝え辛かった。
それが今日の場合は、偶然とはいえ話せそうな内容を主治医の方から振ってくれた。
更に言えば、今日まででも色々触れ続けてるので、知識というか。自身が学んだ事、気付いた事が以前より格段に増えてたので、説明が上手くできていた。
うーん、これは。
やっぱり、興味を持て触れようとする。触れるだけでなく、それが学びというか、自身の経験値になるように得た情報を元に考えてみる、振り返ってみる、他色々出来る事をやって、自分の中に落とし込む。
やっぱり、大事ですわぁ、と実感したんですよ。
こういう実感はいくつになっても、何度となくするものです。
そして、そうある当人としては、こういう部分にもやっぱり感受性って作用してるんですよ。
だからこそ、知る、触れる、学ぶ、考えるというように、自分から進んで色々取り込もうとする姿勢って大事ですよ、ってね。
言ってしまう原因すらも、感受性が絡んだ部分だったり、作用により自身が動く事が元になってます、というね。
まぁ、個人がそうあるだけとも言えるので、だからどうした?かも知れませんが。
まー、でも、ブームで飛びついた人って、自分がそうあると言いたいだけって人が多いだけでなく、自分に焦点当たり過ぎてて、知ろうとしてないから、自分という枠を超え切れてないんですよね。
そして、あえて、濁してましたけど。
否応なく違いが過ぎるだ、感受性が高いだ言われるわけですが。
そういうタイプって、本領発揮したら、正論が過ぎるとかも言われるので、言論で勝てなくなりますよ?
上辺の心地いい言葉に乗ってる間に、それ以上の物を得ようと動いてるわけで、楽をする為に、苦の道を行くんです。
言葉に乗っかって楽が出来る様なら、今頃私は精神病んでおりませぬ。
そんな感じです。
高いも低いも気にしてない
あくまで、こういう内容を書くに当たり、自分で言うだけではダメという部分から、他者の言葉を借りてるという事を何度か言及した事があります。
で す が。
個人としては、そんなの自分ではわからんちん!という感じで、実際のところ全然気にしてないです。高いとか低いとか。
感じるとは何か?という上の所で、誰にでもあり得る「感じる」の正体が感受性だと言いました。
そう、誰にでもあり得る、それ故にそれが「個人としての普通」なり得る部分であるのも感受性、感じるという事なんですよ。
なので、何がどうあれ、あくまで自分にとっての普通はこんな感じ、というだけなんですよね。
差があったり、それ故にズレも感じますけど。
でも、私からすれば、学力にしろ、運動能力にしろ、なんにしろ差があって当然なのが人間なので、自分はこういう人、他者にたいしてもAさんはこういう人、Bさんはこういう人という認識の仕方になってます。
何はともあれ...。
高い低い言ったところで、感受性って目に見えません。
行動や仕草で可視化は出来ますが、何を感じ取ってて、脳でどう処理されてるのか?なんていう、その内容は現状ではみれないんですよね。
なので客観的な判断も難しいですし、かといって主観だけが全てにもならず。
それを説明出来る様に自分がならないとダメなので、色々知る、学ぶをしようとするんですよね。
そもそも、個人としては、
違いに気づいて声をかけられるのに、自分の実際を答えると違いが過ぎるもんだからと、当人の意見を否定するなんて矛盾した扱いが常です。
それに対しては、やっぱり自分の事を少しでもわかってもらいたいから、どう説明するか?どういう説明だと納得してもらえるか?という部分からも、知る、学ぶに動く所もあります。
分かってもらえない事には、アイツはああいうヤツだし、やりたいようにやらせといていいよ、になるわけが無いですから。
まぁ、負担は多いですし、色々ありますけどね。
うん。
こういう事を言うと、私が負担を抱え過ぎでは?と心配してくれる人も居るのですが、何はともあれ自分の持ち物ですしね。
上手く向き合う、付き合う必要が有りますし、その為には高いだ低いだとか、HSPという概念を捏ねて特別扱いとかしてたら、途端に出来なくなるので。
しない方が良いのにね?と、個人的に思います。
あとがき
少しばかり間が空きましたが。
どうにもこうにも、普段抑え込んでるトゲがぐわ!って感じで出てしまい。
書いては消し、消しては書きとしてる間に、消耗もしてしまいぐったりするという状態になってました。
ただ、少なからず文字化するだけでも、人に話すのと似たような効果っていうんですかね。
外に出してる事にはなるようで、ある程度出し切ると落ち着きもしますし、それ故に消して留めるという感じで、上手く作用してくれてるようにもあります。
うん。
ただ、その一環に要因としてあったものの中には、注意を促したいという部分があります。
というのも、選挙が終わってからという物、即座にテレビなんかは繕い始めましたが、その中で、
「これからは若い人の時代」
みたいな事を言ってましたが、コレはもう、社会人になってからという物、様々な環境、様々な状況で言われる側にも居ました。
でも、実際は言うだけで、年上の方は結局年功序列と言わんばかりに、いざとなると、肝心な時には、という状況だと...
絶対にそうなりません!
そして、そうしてるうちに年を重ねると、若い頃には老害が!だったのに、そこが近づくからか、最近の若いのは...って言い出します。
そういうね?
高校時代から付き合いがある、所謂同級生に、
「そんなんじゃダメだろ?若い頃に同じ事言ってたんだし、若い奴の気持ちわかるだろ?」
って突っ込むと、
「お前みたいなやつとは違うから」
ですよ...。
そんな感じなので、年齢や老い若いで基準を持つ、区別するのではなく、一人の人間として様々な問題に向き合い、どう変えていくのが良いのか?をいい加減一緒に考えられるようにならないといけないと思います。
何度同じ事くりかえすんじゃい!
そんなだから、若いどころか、その下の世代にツケだ、しわ寄せだが回るんだろうがよ...。
そしてね。何はともあれ、若い世代だからと頑張り過ぎるとね。
私みたいに精神病むどころか、長引いてしまいかねないので、無理はしないでね。
ホントこう、いい加減、個人としてという感じで。
目先の楽だけでなく、ツケを残したんだから老い先短かろうが、一緒になって、手を取り合って出来ないといけないとは思います。
とはいえなぁ。
年齢重ねると、脳が萎縮もするし、難しくなるって部分もなぁ...。
ってもうこれは、人間として進化を意識しつつ、自分たち自身が命として、生きる者として、新たなステージに進もうとしないと、ダメなのかもねぇ?
と、余談やおかしな話を挟みましたが。
今回はこんな感じです。
ほんともう、メンタル病んで一線引いたけど。
それはそれで、申し訳ねぇ!って思う所もあるんですよねぇ。
人生って難しいなぁ、もう!