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私と言う人間について

ほんと難儀よねー。

って感じで、またやらかしたようなそうでも無いような。

まぁHSPについて扱ったりしてますし、っぽいって言ってるくらいには自覚もあるのですが、やっぱり良い面悪い面が必ず出てくる物で。

自然と見てる物が違ってしまい、考え方のベクトルがあらぬ方向を向いてしまうせいか、口に出した途端反感を買ったり、誤解されたり。

うん。

ま、幼稚園入園以前辺りから記憶が残ってるのですが、その頃からもうそんなタイプだったので、昭和という時代だったのもあって周囲に居る大人、親を含めても相当に否定をくらって抑え込まれたもんです。

いつも心に留め、戒めや励ましの為に座右の銘というのを用いる事があると思いますが、自分で言うのもなんだし言葉もおかしいけど、私の場合は「否定、対極、表裏の裏側」そんな感じですかね。

ということで、長くなったりわけわかんない事を言うかもしれませんが、ちょっと自身の整理の為にも書き記してみようと思います。

というか、言い訳がましいかも知れません。捉え方によっては(;'∀')

物事の見方について

全部が全部じゃないですが、目の前に降って湧いたような現実については、結構な確率で「そうなるのは何故なのか?」からスタートします。

そして、そこから「可能性の追求」に移る感じです。

この2段階目の可能性の追求については、したくてやってるというより、何かしら降ってくる、何かしら感じとるという形で、自分でもよくわからないけど、そこは整理しないとって勝手に思考が走っていく感じ。

そうしない様に止めたとしても、その位置に引きずり戻されて、いってらっしゃーいって感じになったりします。

それが途端に落ち着いたという状態になって、色々を整理して自分の中に落とし込むっていうか、落ち着くというかそんな感じになってハイ、終了。

なので、可能性って言葉を多用しなくもないですし、場合によっては厨二っぽさが爆発して、キモイやらおかしいやら、そういう人に見られる事受けあい...だと思います、恐らく。

時には、それが人に向く時もあるので、何か暴こうとしてるのではないか?と言う風に見えるかも知れません。

この辺最近もしかしたら自分の事かなーって事がありまして。

って書くと、またこうね。

この人変な事言ってる...。気持ち悪いって感じ取られそうですが、それはそれで仕方が無いかな?とも思います。

どんなに言葉を尽くしても伝わらない物は伝わらないし、理解どころか共感すら得られないと思います。

なので、基本的には表に出さない、出来る限り抑え込むという方向に持っていくのですが、何でか不思議と抑えきれずに出してしまうという事が最近増えてる感じで。

自分でもやってしまったなぁ、とか反省はするんですけどね。

嫌でも気づいてしまう事も

あるんですよ。

この話は出さない方が良いという警鐘を鳴らす私と、それでも話しておきたいという私が現在格闘してて葛藤中ですが、話しておきたい私の方が優勢な状態になってます。

あまり良くない話ではありますが、高校3年くらいから明確になり始めたもので、不幸というか良くない事に関して、身近な人についての物は察知してしまい、それが現実化してしまうという経験をしてます。

従弟や幼馴染、祖父、祖母、そして一番の理解者であった母について。

そんな事はあり得ないって話なのですが、私としてはそうは言われても感じたとおりになってしまうんですもの、という物で色々難しいのですけどね。

死期について、間違いなくこうなるんだなって何でかそんな考えが浮かぶというか、感じとるというか。そしてそれを受け入れて、対応を変える必要があるときは変えるという感じに動き始めます。

特に母については、肺腺癌で肺が徐々に潰れていくという様な状態だったので、いよいよ苦しい状態になり始めてからは、私ももう荒れ始めて。

母の為」という言葉が出た途端に、ちょっと待てと言わんばかりに止めに入ったり、場合によっては苦言を呈してバトルしたり(特に父)、兎にも角にも一番苦しい思いしてるのは母なんだから、お前らの正義おしつけんな!クソったれが!!という勢いに...なりはしませんでしたが、そういう気持ちを抑えつつも、相手の為と言いながら自分の希望を口にする人については、過剰反応してましたね。

最終的に、良くも悪くも母は亡くなりましたが、その時は悲しさよりも自身の無力さとか、人の生死についての無常観みたいなのを感じて大泣きしてましたね。

そういう意味では、完全に周囲からは浮いてたと思います。

そして、私について一番の理解者だった母は、2歳下の弟を妊娠した頃からの私の行動の話と共に、親として守ってたはずが実の所は私の母の方を守っていたという後悔と謝罪、そしてこれから先は自分の為に生きる事というのを残してくれました。

その時はイマイチ理解出来なかったのですが、数年かけて何となく理解したというか、よくよく考えれば確かにそうかもしれないみたいな心持ちになってる様な状態です。

という、話なのですが、話したからどうだってわけでも無いですし、上でも書いたように伝わらない物は伝わらない、分からない物は分からないとは思いますが一応。

情けは人の為ならず

巡り巡って自分の為ですよっていう諺がありますが、ホントこれ。

真面目過ぎ、気を使い過ぎ、配慮をしすぎとか言われますが、自然と自分と周囲を天秤にのせて、善悪や正誤、真偽というような二元は可能な限り排除したうえで考えて行動したりもしますし、もう気が付いた時からそれが普通とか当たり前な状態になってました。

なので、〇〇過ぎと言われても、自分の為だし周囲の為でもあるし、ホントこう空気や雰囲気だけでなく、言葉の行き交いすら時に苦しいって感じるどころか、体調にも出るような状態な状態で。

実際の所、いやいや自分の為だからと言う方が強かったりもしてます。

こういう部分があるから、怪しかったり、変だったりと感じ取られてしまうのかも知れません。というか、恐らくそうじゃないかな?って思います。

まとめというか、最後にというか

何ていうか、自分で自分についての事を書くのは恥ずかしさもありますね。

加えて、こういう事をしてしまうと、言い訳がましいとか見苦しいとか見られてしまう事もあるので、後々やってしまったなぁ、と反省するかもしれません。

ただ、やっぱり伝えておいた方が良いのかもしれない、とも思います。

ざっくり簡単に言えば変なんですよ、変(笑)

付き合いが長く、引きこもりの様な現状でも付き合ってくれる友人からは、人生悟り過ぎやろとか、お前は仙人か何かかよとからかい交じりで笑いながら言われたりもします。

自分では一応否定はするものの、そう言われてしまうのも分かってしまっちゃって。

なんともまぁ、不思議な生き物なんですよ。

そういう部分も含めて、文字ったり皮肉を自分で込めたりしての、生物さんという名付けだったりもします。

ということで、改めて自己紹介というか、自分語りというか。

自分自身について書いてみました。

まぁ、これでも全部じゃないから、この先は神のみぞしるのじゃー!

という感じで終わりにします、よ!

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