言葉、そのものに付いての話
言葉はコミュニケーションのツールになり得るものだけど。
いやさぁ、「一方的に相手を決めつける」のだけはやっちゃいけないですよ。
いや、ほんと、マジで。
ここ1ヶ月の間に・・・
なんかこう、わけわかんない、といいつつ。
一方的に決めつけて、ごちゃごちゃ絡んで来る人に出会ったわけですが、正直面倒でした。
ぶっちゃけ、個人としては自分の父親と同じ、でした。
何をどう言ったところで、自分がいいたいこと、それだけが前面に出過ぎてて相手の言い分を聞けない、聞かない。
言い方悪いですが、ASDとAD/HDの両方をもってるのでは?と思えども、父はもう高齢だし、恐らく病院に連れて行っても年齢がネックになって、治療するしない、我慢するしない、上手く付き合うか否か、というせめぎあいになるでしょう。
というタイプの人に、Youtubeで絡まれる、と。
そもそも、コミュニケーションの基本としては、相手への確認や尋ねると言うことも必要になるのですが、そういうの無しに端っから決めつけてきてるんですよ。
一切の確認が無いから、相手の意思、趣旨、狙いの把握すらできてない。
それなのに、一方的に「こうあるだろ!」と決めつけてくるだけでなく、「理解できてますか?」だなんて、
自分は理解出来てるけど、お前は出来てないだろ!
というのが明け透け過ぎて、アイタタタタタ。
コミュニケーションを取るつもりがないのに、絡んでくるなよ!っていう、ね。
心理学的な話になると、コミュニケーションは発する側がどのように発信するか?だけでなく、受け手側がどの様に受け取るか?という部分も考慮されます。
なので、発信側のアクションだけでなく、受信側が何かを返すにしても柔軟さが必要になりますし、そのためには確認したり、尋ねるというのは当たり前のことにもなりえます。
また、指摘をするのであれば、相手が言ってる内容、書かれたものなら書いてる内容をあげた上で指摘しないことには、
「まず、何を言いたくて絡んで来てるのか?がわかりません」
いきなり絡んで来た側が、「自分の言いたいことだけ」を言ってるだけに過ぎないので。
理解するしない以前に、確認してないので、説明すら不足しすぎてる。
こういうのって最近多いと言うか。
Twitterなんかだと、政治関連のトレンドみると、憤怒や嫉妬、傲慢のるつぼですよ。
七つの大罪とか流行ったのになぁ。
実態の 罪の方には 触れられず
一句詠めちゃうじゃないですか・・・・。
過敏性腸症候群のトリガーとして
メンタルやんで引きこもった分、朝起きるという負担が減りはしたものの。
そもそもが、幼稚園時点から抜きん出てるからこそ、評価をされてたのに実態をつかもうとしない大人たちがやらかしてたこと。
話を聞かずに、一方的に決めつけて、悪いもの扱い。
こういうのも、トリガーだと、気づくことになりました。
なので、面倒くさい、と。自分自身の話です。
幼い頃から、嫌というほど、表面だけを繕う人を見てきてるだけでなく、最初期は5歳、6歳のガキンチョなのに、図星とか、建前の裏の本音とかを、グサグサ刺したりする子でもあったので、ね。
色んな経験をしてきてます。
井戸端会議の会話に、離れたところで遊んでたのに気づいて駆けつけて、
「それはイジメじゃないの?」
という指摘をして、会議メンバーのおばさまたちも苦笑い。
うん。
なのでね。
個人として敏感に反応するものの中には、言葉、というものがあります。
そのせいか、ウェクスラー成人知能検査の結果においては、検査としては数値化出来ないものを持ってると言われもしたというか。
同じ臨床心理士の先生に、別途行ってもらったカウンセリングの中でも、そういう言葉や言語化が絡んでの異質さは指摘されてるんですよ。
なので、言葉が引き金になり、過敏性腸症候群としての下痢、腹痛、お腹の不調とか出てくるという。
引きこもって普通の生活しなくなっただけでなく、精神科通院での色々を数年単位で経験して、ようやく気づいたというか・・・。
正直こう、自分の体なのですが、呆れるくらいです。
ホントこう、短絡的と言うか、目の前だけというか、都合が良いからというのは、ね。
明け透けで、見えるし、気づくし、体調変化で苦しむんですよおおおおおう。
みたいな。
とはいえ、ここが弱点にもなりえるんですよ、ね。
そうあるからこそ本質は出せない、その理由
最近は少しだしてますが、まだまだ手ぬるいんですよ。
本質だしたら、言葉でめった切りするだけになり、衝突や無駄な争いしか生まない。
特に言葉って、思考や意識、意図、狙いを表現するものでもありますし、その過程においては「無意識から漏れ出るもの」ってあります。
それに気付けるからこその、相談上手とか、教え上手という周囲の評価だったりもします。
そして、そういう部分は「気付け無い」という他者にしか会ったことがありません。あくまで、個人の範囲なので、限定的ですけどね。
ネットを通してても、同じくうつ病を抱えてる人とやり取りしたら、「何でそんなに辛さを受け止めてくれるの?気づいてくれるの?」と、問われる事もあるにはあります。
いや、なんとなくだけど、そう思ったと言うか、気づいたと言うか・・・。
実際は濁してしのいでたりします。
いやその、言葉の使い方や、パターン、その言葉を使う場合の客観視からの気付きほか色々。
凄く受け取ってしまうんですよ。言葉で書かれてる以上のものを。
とはいえ、言葉だけからそこまで掴まれるとなると気持ち悪いと思います。
また、探らずとも表面上の言葉から受け取れる裏側も多いです。なので、余計に気持ち悪いと感じる人もいると思います
うん。
でも、それが個人としての普通の状態、なんですよね。なので、良かれと思っても失敗する事も多々あります。
気づくとか、感じ取るとか、そのレベルがおかしなところに飛んでいってるので。
よしんば言葉をつくして説明したものを受け止めて貰えたとしましょう。それでも、ね?
「やっぱり出来すぎてて信じられない、でも言われたことは普段から見てる。お前は何なんだ?」
というような、感じになります。
なので出せないだけでなく、出さない。そういう部分でもあるんですよ。
そして、出さない時には、認知の歪みだ何だを過分に含んでしまうのでストレスもたまりますし、言葉だけでも込められた感情、念を感じます。
だからこう、言霊というのはあると思いますよ。
なんてことも言うんですよね。
言葉に念を込める事での呪いも同じくです。
そして、こういう部分からは一見怪しいオカルトやスピリチュアルという物へのイメージがあるので、出すのが難しいですし、出すことは控える、抑えるするんですね。
相談とか、教える、指導・教育するという部分では、対象となる側の不利や弱点へのフォローや手助けになりえます。だからこそ、そういう所が評価されるだけでなく、頼られてた時期もあったわけです。
が、必ず、デメリットと言う部分もあります。
今となっては、自由とか権利が個人としての好き勝手に置き換わりつつある。それ程に、ネットという環境すらも、昔に比べると悪くなってきてるかな、と。
個人としては思いますし、それ故に敢えて離れもする。
薬飲んでも効かないので、眠って休んでリカバリーもしなきゃいけない。
そんな状態になってます。
過ぎたものを持つというのは、その分の代償も確実に持ちうるんですよ。
生きづらいの~、疲れるの~、大変なの~。
ふざけんな!!!
ですよ?
あとがき
やっぱりこう、便利で楽に慣れすぎて、想像力や考える力が欠如してませんかねぇ?
って、あとがきでグサっと言うようなら、本末転倒では?と自己ツッコミしつつ。
よーく考えよー、言葉は大事だよー。
精神疾患も認知されてきてるのに、言葉が心や精神にダメージや傷を与えるということには気が回らないというのは、いかがなものか?とは思います。
かと言って、自由を制限するわけじゃないです。
メンタル病んでる側も、自衛はしなきゃいけないですし、最終的に自分を守るのは自分ですから。
病気や症状を理由に、他者の自由や権利の侵害はできません。
そういう部分から、お互いに配慮し合う、尊重し合う、という土台が出来上がれば、とは思うものの。
便利と楽になれてしまい、欲に振り回されて、自由に出来ないのはヤダヤダ。
流石に、大人になれてない大人が増えすぎでは?と。
それこそ、子供に対してデカイ口を叩きつつも、行動で見せられない事になるし、悪影響も生めば、親ガチャなんて言われてしまう。
一時、親ガチャには否定的な意見を述べましたが、何故そんな言葉が生まれるのか?という視点に切り替えると、
「私達大人の中に、だらしない人がいるからだ」
子供にはそう見えてしまうし、そういう経験してるからこそ、大人になってるはずなんですけどね。
大人になったら、大人の立場に即チェンジ。子供のくせに!となってしまう。
まぁ、そういう部分もあるので、理解もすれば、否定もするし、どちらも扱える1と0を併せ持つことができるのが、感受性、と。
確かに面倒だし、苦労もするし、時には嫌な事に我慢しなきゃいけないので、やってられないかもしれない。
でも、より良くするためには?を考えると、大人になったからではなく、変化に合わせて常に成長していかなければならないとも思います。
って、話がそれがちですが、こういう部分に言葉の扱いや、他者とのコミュニケーションは何かを考える必要があるのでは?という問題提起も生まれるんですよ。
世の中の仕組みを作るのが人間だというのに。
仕組みの上辺だけ良くして、人間が変わらないというのは、土台が腐ったままという、ね。
そういう話だと思います。
ということで。