言葉の登場で変わり始めたもの
なんだかんだで、色々調べる触れるをしてる身でもあるので、それなりに得てもいますし、その上で自分でコントロールできる範囲での可能性の追求みたいな事もやってます。
そうすると、ブームとは別な部分が見えてくるんですよ。
そもそも、個人としては今まで表に出さず、人に見せずしてたのを、ネットで、匿名とはいえここまで出してしまってる。
まぁ、そういうのは文字からは伝わりづらいですが、自身の実感では相当に出して来てます。
今まで隠してた物を。
それは、良いも悪いもを含んでるし、時に刃にもなるので心に隠して忍んでたわけですが、
そろそろ頃合いなのかねぇ?
そんな気持ちも浮かば過なくないわけで。
そういう部分を少し話してみようかな、と思います。
という事で、今回はお約束おいときますよー。
結構突っ込んだ話、感受性が高いと言われる個人が隠してたものを、表に引っ張りだしますので。
頃合いとは、どういう事か?
何がどうあれ、個人としてはひた隠しにもしてた感受性の部分を出す事になった、という状態や状況変化というのは、
出さなければいけない状態になった
という感じですかね。
なので、HSPという言葉とそのブームに対して苦言を呈してしまう、それはなぜか?という、色々言う反面疑問を感じてた自身に、現実から答えが差し出されたというか。
そんな感じの状態になってる=頃合い、です。
良くも悪くも感じ取りやすい。
その感じとるという部分には、違和感という物も多いんですよね。
自分でも把握しきれない程に深い所から、そうあってはいけないと言わんばかりに不思議と突き動かされるという感じでした。
とはいえ。
何故そうあったのか?というのを、誰がどう言ったとか他人に頼る形ではなく、いつも通り自分に落とし込んで自分で語れる物として、が得られた、出来上がったというのもあって、最近は地味に落ち着いてたりします。
そうじゃない事もありますけどね。
自分で言うのもなんですが、HSPのブームってホント、
頼むから寝る子、寝てる子を起こすような真似しないでくれ...
という感じ方もしてました。
そうじゃない人が、自分がそうだと言いたいが為に好き勝手扱うというのは、実際にそういう概念が当てはまりそうな人にとっては、やっぱり迷惑ですし。
偶然とはいえ、いち早く生まれてて色々経験してた個人としては、人間のいい加減さという部分も被り過ぎてて、神経をやすりで擦られるような感じでもあったんですよ。
自分はHSPではなく、感受性について触れてる話なので、個人が持ってる感受性の部分にHSPという概念が当てはまる、でしかないんですよね。
私個人が話してる内容だと、
そういう行動をしてしまってるからこそ、真面目過ぎだと言われる。
そういう行動をしてしまってるからこそ、気を遣いすぎだと言われる。
真面目や気遣いが出来るなんてのも、そうある様、そうある行動があってこそ当てはめられるんですよ。自分以外の他者から。
概念って、そういうものなんです。
どうしてそうあるのか?どうしてそうなのか?を、一般的に通じやすいように仕上げる。
なので、個人としては、真面目も気遣いも感じ取ってる、気付いてるからこその行動なだけで、その概念は違うと言いますし、HSPについても自分がどうかは知らないけど、感受性が高いと周囲から言われる、と。
そういう話もしてたんですけどね。
概念って自分が当てはめる物でもないんですよね。
真面目さなんて定着しきってるからって、自分からホイホイ
「私は真面目なんです」
とか、言わないでしょ?という。
と、話がそれましたが。
結局は何がどうあれ、まだ研究が続けられてるだけでなく、人が持つ感受性、感じるという部分は、物質的には脳が関わる要素ですし、それ以上に人がそうあると言うのは生まれや遺伝子という話だったり、進化みたいな所に踏み込みかねない話でもあって。
そうある人なら、あくまで可能性としか言えないけど...程度には気づいてたと思います。
その可能性にメスが入り、少なからず掘り下げた話もあるようなので、表に出しやすくなってきてる頃合いだと思います。
だからこう、過去には少なからず
HSPってまだ研究がされてる概念で、色んな話が出て来てるのだから、
迂闊に触るといずれ化けの皮が剥がれる事にもなる
そういう、警告とも注意喚起とも言えるような事も触れたんですけどね。
どうしても人間弱い物というか、特別な存在でありたがったりするもんだから、手を伸ばしてしまった...というのも否めないと思います。
個人としては、自分の中のブラックボックス、あけてはいけない箱に触れられるような物でもあったからこそ、敢えて必要以上に触れず避けてたのもそのためです。
だってその、ねぇ?
口で言うのは簡単なので、いくらでも言えるわけです。
ですが、言ったところで証明は難しい。
言うは易く行うは難し、だったんですけどね。
HSP=感覚処理感受性が高い人、という概念です。
どんなに言葉を捏ねまわしたところで、今でも研究が続けられてる=より深い所に踏み込んだ成果がえられるようになる。
そうなると、途端にひっくり返されるような物でもあります。
本当にそうあるなら、その位気付くのが容易いんですよ。
幼い頃からそんな感じで、出す出さない、言う言わないの制御も出来てましたし、だからこそ感受性だけという部分だけでなく性別や性自認という部分も合わせ持ってた個人としては、生きづらかろうがひた隠しにして生き抜いて来て今があるわけで。
人間って色んな要素や色んな側面を複合的に持ってるような生き物です。
それを一点だけみて、そういう人だなんていう事も出来なければ、決めつける事も出来ない。
精神疾患すら今ほどになる前は、甘えだなんだで抑え込まれてたわけですし。
自分は経験した事が無いっつっても、そういう事を言う人の話聞いてれば自然と学べるのも、感受性の作用なんです。
気付く、察する、が出来るんですからね。
歴史や過去を勉強するのも、単に知識を得るだけでなく、そういう過去の人の生活や、実際にあった災害の記録なんかからも、察して学んで活かす為に学ぶものだと思います。
そういう風に考えれば、3.11の大震災も悲しい話ではあるものの、過去の先人たちの言い伝えによって助かった人も居るという現実がある、という事も知れる話なんですよね。
だからこそ、温故知新、なんて言葉もあるわけなんですよ。
あくまで可能性、という話。
個人としては、気付いた事、察した事を更に繋ぎ合わせる事で、
あくまで可能性という形であっても、更に深い部分に触れられなくもない
そういう作用は昔からあります。
そしてこれを活かした結果として、相談上手、教え上手、という評価も他者から受けてます。
ただただ話しただけなのに、何でそこまで分かってるのか?
そう問われる事も多いですが、答えるのは、
ただ話を聞いてるうちに感じ取ったものから、可能性とか多分という形でそうなっただけ
感じとったらハイ!終了!ではなく、それを繋ぎ合わせる事で、浮かび上がらせる事が出来なくも無いんです。
なので、夜空に星座を描くように、という話もするんですよね。
可能性という点を繋ぎ合わせて、浮かび上がらせてるわけですから、実際に。
そういう事をやってると、いずれは答え合わせが出来てしまうという感じで、実際にそうなるという事も起こりうるんですよ。
故に、出来すぎだ、と言われてしまう事もあるんです。
そりゃそうですよ(笑)
予言とか予知とかは出来ない、まず無理といいつつ、多分とか言いながらそれを言い当てるわけですから。完全にではなく、おおよそとか、ほぼ程度でしかないですけどね。
目で見えるという部分でも、視界の端に映るだけで記憶してるという、若干過ぎた部分があるのですが、言ってしまえば事象という何かしらの動き、状況の変化なんかは、そういう可能性という気づきから、頭の中での想像として見えるという感じです。
そこをカウンセリングで、”現実を深い所で見つめすぎです”と、小出しにしてても突かれたという感じで。
これは、ただの個人、そう言ったのは一人だけともいえますが、臨床心理士という資格を持った人でなければ、今までされる事がなかったんですよ。
うん。
だからこう、HSPの話をする際に、臨床心理士という資格を絡めるようにしましたし、カウンセラー程度ならメンタル病んでる私すら取得出来てるという話も合わせてしてるんですね。
どういう事かというと。
カウンセラーだと、専門だろうが何だろうが無理でしょ?
その専門すら、まだまだ研究がされてて色んな知見が上がってる状態なのに、何をどういう根拠にして専門というの?ってね。
牽制とか、警告みたいなものなんですよ。
そういう、警告だなんだなんて事すら、暗に隠してでも出来るようにあるのも、感受性として色々気づいてしまう、察してしまうだけでなく、
あくまで可能性、という程度とは言え、把握してるから
なんですよね。
そうある自身だからこそ分かる事として、1歳時点で既におかしいレベルだったせいか、世の中に新しい知見が出てくるようなら、そこから気づいて察して、アップデートもしてという感じで、常に変化し続けてます。
まぁ、言ってしまえば、未だにそういう部分では、成長してるって感じもあるんですよ。
メンタル病んでるとはいえ、自然とそう言う所に関心が向いて色々触れるわけですが、自分でもなんでそんなに突っ込もうとするの?と不思議に思う程に、気が付けば触れてしまうんです。
頭の中で、触れろ、踏み込めみたいなのが、無くも無いというか。
自身が幼い頃から違い過ぎた故に、人の内面、思考、感情、精神、感受性という所には関心が向くようになってしまってるんでしょうね。
あとがき
ちょっとこう、今回はというか、いつも通りつつく真似をしたわけですが。
個人としては、こういう事書いててもアクションが無い以上、おおよそ専門だろうが扱えないのでは?と、薄っすら感じなくもないわけで。
正直、書かなくても良いんですよ。
でも、書いてる=幼い頃から感受性が高いって言われる人がここに居ますよ?アピールだったりもするわけです。
かといって、あくまで言われてるだけ、という程度でもあるので、暗に隠す真似もする、と。
そうしないと今まで生きてこれなかったので、無意識に染みついてるクセみたいなものです。
また、そうあるからこそ、無意識に対しては、自分自身だけしか把握できないからこその踏み込みもしてたりします。
個人としては、真面目とか、気を遣い過ぎというのも、ちょっとしたクセみたいな感じなんですよ。そうあらないと、怒りという、一番苦手にしてる他者の感情が飛んで来てダメージを受けてしまう。
それを回避するために、見えすぎ、聞こえすぎ、気づき過ぎを上手く活かすようにもなったという感じで。
うつになった、という初期の頃には、高校時代の弓道部の顧問からは、
「お前は真面目どころか、真面目って文字が服着て過ごしてる様にしかみえなかった。」
って言われもしてたりします。お前は人間じゃない、真面目が服を着てるんだ、そんなイメージって、ね(笑)
また、暗にしてる、隠してる部分には、おおよそ感じた通りに未来がそうなるという経験すらしてます。
現状では、流石に出来すぎるとしか思えない、偶然を覆せないので深く触れて無いですけどね。
とはいえ、少なからず踏み込むと、精神的なダメージを回避するという、自身の生存本能として、相当に限定的だけど、そういう気づき、察しをしてるという感じです。
母のガンが発覚した時も、状況としてはその母がまだ居てくれないと困るほどに、幼い頃からの色々で人間不信をこじらせてた状態でした。
でも、闘病生活の中では、送り出す為という感じで、悲観をしてないのは私だけでした。
なんかこう、自分でも不思議な程に、違う次元に行ってしまってたって感じだし、そうあったからこそ、色々済んでからも必要以上の気落ちすら発生しませんでした。
思い出して涙する事はありますけどね。
色々すったもんだありましたが、性別の事を抱えつつメンタルをやすりで擦られる様な状態でも過ごせたのは、自身の感受性としての感じ取りが無意識にすらも作用して、必要以上に悩まないという状態も作ってくれてたからこそ、と、今となっては言えるものでもあります。
そのくらいに、奥が深いというか。
個人としては、客観的に見ても、生き残りの為にという部分が否めず、現状では精神障がい者とはいえ、その程度で済んでる=大きな過ち、センセーショナルに報じられる真似をしないで済んでるというのは、明らかに感受性がそうさせてる物だと思います。
なので、生存本能というか。生き残るために気が付けば必要な事やってくれてるなぁ...。
という部分もあるんですよね。
まだまだ、辛い事って多いですが。
とまぁ、色々書きましたが。
少なからず誰しも持ってるものだし、正しい間違いではなく、また必要以上に自信が悪い方に踏み込まない程度に、自分自身との向き合いをすれば、感受性の扉は開くのでは?と思いますよ。
個人としては、気付いてたからこそ、幼い頃から常に自分が触れて、自分で向き合って来たものですから。
という事で、今回はこれにて。