改めて色々考えてみる
何でそんなに気づくのか?
という感じで、気づいてる事に驚かれる事もあるのですが、気づくと言う時点でも、何かしらをどこかで受け取ってる事が殆どという感じで。
ただ、そこに対して聞いてきた相手側が同様ではないので、おかしいとか、ありえないとか、そんなはずは…、と言う感じで色々言われもする、と。
その内訳というわけではないですが、実際は意外と五感に依る部分が結構あったりします。
今回はそういうお話になろうかな、と思います。
意外と多い視認によるもの
人間、どうしても目での認識が殆どになるため、視覚による認識というのは結構強く影響されるものでもある、と思います。
ただ、個人としては割と無自覚、無意識のうちに視認している事も多いので、”何で気づいたのか?”は意外と聞かれやすいですし、聞かれた時に、
あるタイミングでの視認によって気づいてる
という感じで、なんでか不思議と記憶から呼び出せてしまうという事も多いです。
それこそ微妙過ぎる変化、一瞬の変化という物に対し、ちょっとした顔のパーツの動き、一瞬の仕草、その仕草の中のポイント、視認で把握できる空気や雰囲気の変化など。
相談なり、話を聞くなり、教えるなりしてる時の対人関係に限るだけでも結構細かかったりします。
他にもまだあるのですが、周囲が気づかない程に小さい変化を意外と見逃しておらず、また無自覚、無意識にやってるとはいえ、きっちり記憶に残ってくれてるというケースも多いです。
なので、聞かれて説明した自分自身も驚くというか、不思議というか何でこうあるの?って事は意外と多い事でもあります。当たり前とか日常の一部なのですが、よく気づいてるなぁだし、しかも記憶として呼び出せるだけでなく、意外とあっさり思い出してくれもするので。
また、社会人してた頃は、集中下にあっても同様で「いつのまにそこを確認したんだよ!」と言う感じで驚かれてしまう事もありました。正直、ここまで来るといくら無自覚、無意識でやってても、自分で流石に把握しきれないですが。
なんかもう、勝手に見て、勝手に記憶してくれてる。そういう話になってしまうケースもあるんですよね。
人体の神秘!とかドヤって誤魔化したりもしますけど(笑)
そもそも、驚かれて、聞かれて、そこから思い出して当人が気付くなんて事もあるあるなので、ホントこう人体の神秘みたいなのはあながち嘘でもないのかな?とは思います。
視覚以外の五感としては
やっぱり、音、声という聴覚が多くなる感じです。
声に関しては、幼い頃に地獄耳とか言われるくらいで、多少の距離があってもなんでか自分だけ聞き取っただけでなく、ツッコミを入れに行くなんて事もあり。
状況によっては、声にだす、言葉にするというのは、思考だけでなく感情も働く事があるので、なんていうかこう個人のクセみたいなのが出てるよね?というのは思う所です。
とはいえ、そんなクセみたいな部分になると、何で気づいてんの?という自分での驚きはこれまたあるもので。自身のおかしさは自覚する要素にもなりえます。
自身の背後に気付くというのも、そういう声や音を自然と聞き取り、聞き分けしてる感じだったりします。全部ではないのですが。
そして、目という視覚、耳という聴覚以外になると、置かれた環境全体における変化というでは、やはり臭いも感じ取ってる、嗅ぎ分けてるという感じですし、また食べ物を口にした時でも味覚で微妙な差を感じ取ってて、出汁に鰹節がとか当てて驚かれるというケースもあります。
あとは、触覚なのですが。
微妙にこう、場所の規模が小さければ空気の動き?だったり、気配だったりは触覚になるんでしょうかね。
ちょっとおかしい物としては、完全に視覚に入れてないの背後や視界外から見つめられてる視線とかに気づく場合もありますし、そういう場合は明らかに自分に向いてる事が殆どだったりします。
明らかに動いた直後であれば、音の動きからの予測になるのですが、振り向いたり視界に入れなくても言い当てたりします。
とはいえ、予測のハズなのに気のせいではなく、明らかにこれは見つめてるなぁみたいに感じ取ってる部分は、触覚ともいえるんでしょうかね。
なんかこう、焦点合わせられてる部分からざわざわした物が神経を通って脳に伝わってくるという事も稀にですがあるんですよね。
流石に出来すぎ?
周囲からすれば、色々気づいてて驚いてしまうのもある意味当然という部分も多いのですが、流石にこれは説明してる自身でも出来すぎだぞ?と思う事も多かったりします。
聞かれて説明する=少なからずの過去なんですよね。
なので記憶頼みという部分は否めないですし、説明して納得にするも、説明されたところで相手がはっ!とするも、なんでそんなのをイチイチ記憶してるんだ?というのは、意外と周囲との見解の一致に至るという事も多く。
正直、自身でも出来すぎてると感じてしまうので頭を捻る事にもなるんですよね。
先日、noteのサークルへの投稿で、進化というワードを目にしたので、そういう可能性や方向性も考えてみたものの、如何せん学があるタイプでもないので、寧ろ迷路にも迷い込んでしまう形にもなり。
ちょっとばかり頭を捻ってて、ある一つの事が思い浮かびました。
「あ、もしかして言語化が関係してるのかな?」
うん。
なぜ言語化なのか?
私自身幼い頃はそれこそというか。感じて、気付いてした時には、周囲で発生してる事に対応するのに言語化が出来る方、という部分があったので、先生や周囲の大人を呼んで代わりに伝えて対応、という事もやってましたし、意外とあった事だったりします。
うまく言葉に出来ず、言いたいことが言えない。
なので、先生や周囲の大人が問いかけてるけど、うまく言えなくて黙って俯いたり、そっぽ向いてるという状況だと間に入るように首を突っ込んだりも。
また、成長して相談に乗ってる中でも、相手が言っていることに対し色々気づく部分があるので補完して言語化しつつ、頭の中で考えたりもしてました。それ故に、湧くイメージからなんかもスイスイと言葉が出てくる感じで。
幼い頃だと”嘘だと思わないの?”という形になってただけで、実際は成長してからの”何故そんなに話が聞けるのか?”、”分かってくれるのか?”というのはほぼ同等じゃないかな、と思います。
一応、民間資格程度にはカウンセラーの資格もとったわけですが、受容と共感だけじゃ足りないというか。カウンセリングではなく、若干距離が近くなる相談なんかだと、やっぱり問い返しと聞き出しとかは必要かな、と思います。
って、言語化まで来ると、もう感受性ではない、という話にもなりますけどね。
危険察知であれば、その危険に対応すれば良いわけですが、相談という形ではなくとも対人関係においては、やっぱり気づいたこと、感じたことは言語化出来てコミュニケーションで扱う必要もあると思います。
あくまで個人的に。
また、長くなりますが、ここから繋げる形で再度ある事にツッコミも入れたいと思います。
外向的?内向的?
興味や関心が自分の内側に向いてるか、それとも外側=他者との共同に夜ものに向いてるか、という違いなんです、よ!
なので、お祭りやイベント、ライブやコンサートというような場所に出向くにあたり、”他者が居たほうが楽しいから”という感じで、周りに人がいることで得られる物を求めるようなら、外向的とは言えると思います。
そういう感情もいい刺激ですしね。
個人としては、どちらでも行けるので両向とか言ったりもしますけど。
ただ、自室にいても外からの声や音は聞こえますし、聞こえただけでなくそこから色んな情報も拾ってしまうくらいなので、自室に居てもインドアもアウトドアも関係ねーわ!って感じです。
感受性として感じ取ってしまうものには、感情というのもありますし。交わって無くても触れ合ってなくても、感情が届いてしまうんですよ。
また、ペットは人ではない!とか言われそうですが、ペットだって感情を出してきますし、感情が出るからこそのポジティブな刺激や影響、ネガティブな刺激や影響を与えてくるものだと思います。
こうして考えていくと、よっぽどに隔離してもらわない事には内向って成立しづらい時代になってるとも思います。あくまで個人的に。
今やネット時代になりましたし、SNSや動画なんかで無関係の他者からの色んな刺激や影響も受けてしまうような時代です。外界に出向かなくても、自然と他者と交わり触れ合う事にもなると思います、こういうのって。
そういう時代の変化で変わりつつある部分を考慮しないまま、従来どおりの外向、内向の言い方だと、人それぞれの解釈の差で如何様にも出来てしまう=好き勝手出来るということにもなるんですよね。
ちょっと厳しい言い方かもしれないですが。
時代が変わるというのは、環境も変わるのとほぼ同じだと思います。価値観や考え方、新しい言葉が出てきて、なんやかんやと自分も周囲も気づけば流れに乗ってるんですよ。
川の流れに対し、ピンポイントで見てたとしても上流、下流の様子はわからないわけで、今の時点での情報を切り取ったところで、大きな流れを見逃してしまう事にもなります。
なので、知ろう、調べようって言うんですよ。
ほんと、ね。
私も研究者ではないですし、英語を読めないので論文を読んだ上でなんてのは出来ないどころか、そういう文章に仕上げる能力もないので、持論が多くなってるのは申し訳ない所なわけですが。
現状は流石に、呆れもします。真面目な話として、ね。
あとがき
ほんとこううっかり「上辺だけだよなぁ」とかボヤいてしまい他者から怒をぶつけられることも多かったのですが。
時代変わって、環境が変わっても、その中にいる人間が対して変わってなさすぎでしょうよ!っていうか、何ていうか。
まぁ、私自身も大層なことは言えないですけどね。
とはいえ、それなりに感受性があれば、見える、聞こえる、察する、気づくと言う部分から違和感ってのも感じ取りやすいですし、不思議とモヤモヤが晴れない時には調べに行って踏み込むというのは、個人として当たり前だったりします。
これが絶対とは言わないですが、
何ていうかその、少しくらい踏み込みましょうよ?
敏感だ何だ言うなら、このくらい感じ取って気づいて調べて、たどり着けるもんじゃなくて?
また、流れとしてはネガティブさやストレスに着目がされてた、と言う流れもあるようなので、その時点で切り取られた情報だと現状も仕方ないとも思いますが…、
研究された以上それは続いてるのか否か?
くらいは流石に調べないといけないんじゃないでしょうかね。
大したレベルではないですが、少なからず研究に携わったこともあるので、そのくらいやって当たり前というか。時代の流れでの変遷って間違いなく在るものなので、更新してアップデートしてかないと、ダメだと思います。
過去のものとして、現在では採用されてないとか含んでると、嘘ということにもなりますしね。
厳しいのかも知れないけど、この厳しさが真面目さ、気遣いや配慮とも言われることもあります。また、そういう物がないと、触れるには少々危ない概念じゃないかな?って思います。
敏感、繊細さん、生きづらいってのは、本質の言葉ではなく、誰かが勝手に作り上げた造語なんですよ。
造語を定着させてしまうと発生するのが形骸化で、また違った形で造語をつくっては、妙な捏ね方を繰り返すのも人の世で。
中身がないスッカスカな言葉や概念があふれかえるからこそ、それらに踊らされ傷つけられして、生きづらくなってしまう。
ほんとこう、ね。
一体何やってるんだ?と同時に、何がしたいんだ?とも思います。個人的に。
と、長くもなったし、グサグサやりもしましたが、今回はこれにて。