経験から語ってみる12(そうあるからこそ
自分で判断出来る物でしかない。
と、個人的には思うのですが、どうしてもこう、
・ネットで拾える特徴を羅列する
・その中から多分レベルの当てはまりで自己を語る
・少なからず心理学としてのという話がない
それなのに、自分はそういうタイプと言ってしまってるのは、やはり目が点になってしまうもので。
実際にそうあるタイプだったら、色々感じ取って察する事が出来るんですね。なので、自分で扱う事すらも出来る。そういうタイプだとも思います。というか、自身がそうあるので個人としてはハッキリ言えてしまう程です。
今回はそういう部分をかみ砕いてみましょうかね。
診断基準がないということは
基準となる特徴も定まっていない、という事も同じくだと思います。
まだ、研究されてる中で、様々な変化もあるようですし、以前まではそう語られてたけど、新しい発見や論文からそこが逆転してしまう。
そういう研究だなんだのあれこれを積み重ねてようやくできるのが、基準という話にもなろうかな、と思います。
また、特徴といっても研究なりなんなりで、特定の人を見定めた時に観測出来た物というだけでしか、ないです。敢えてないですを切り離す=強調するかのように、ないですと再度言う。大事な事だからもう一度ではないですけどね。
なので、ネットで調べた事であっても、自分で熟考する事も必要です。
そこで大事になるのが、HSPという言葉や概念に対する自分の向き合い方になると思います。
そういう人でありたい。そういう人として自分を表現したい。
それは構わないですが、相当に上手くやってくれない事には、自分が主張したHSPに当てはまろう別の人にすっぱ抜かれますよ、っていうね。
こうしたい、というのは欲ですし、それを思い通りとなると強欲ともいえるし、何でそうあるか?の所では他者への嫉妬や、自分をよく見せたいという強欲も貪欲も含めて傲慢さがあるのでは?
という感じで、前回の記事で取り上げましたが、七つの大罪にある罪の言葉で表現できてしまうくらいなんですよ。
罪ですよ?罪。
仏教で言うなら三毒の貪瞋痴の貪ですかね。これまた貪欲、むさぼる、必要以上に求める、根本的な三つの煩悩のうちの一つにもなるんですよ。
と、少し話が逸れましたが。
診断基準がないというのは、自己の判断で好き勝手に扱っていいではなく、簡単に扱えるようなレベルになってない=素人だと浅知恵が露呈する、という事でもあると思います。
うん。こういう話も日ごろから良くするんですけどね。
基本的には、外には求めず自分はそうあるという事にしてるだけでもあります。他者に求めると、怒の発生で面倒になるだけですから。
こうやって出さない理由もあるのに、説明しても、お前は真面目過ぎるなんて嫌でも言われてしまうんですよね。個人としては。
特徴ってそもそも
あくまで参考に出来る部分、ですよ。
個人として片頭痛持ちなので、嘔吐を繰り返す激しい頭痛であっても、自身の体感でこれは片頭痛だと判断できます。
特徴と自身の症状が一致するので。
でもですね?頭が痛いという事は、脳に何らかの異常が発生してるかもしれないというものでもあります。レアケースになりがちですけどね。
なので、期間を開けて心配はなくとも病院へ行きます。検査もしてもらいます。
その上で、脳に異常がない事を確認したうえで、症状が出たらその特徴から判断するというのを日常にします。
こんな感じでね?
特徴が当てはまれば何の問題もない、という事にもならないんです。こんな当たり前の話をする事が来るとは。
そもそも特徴って、自分以外の他者にもそう認められる事が多いから、片頭痛の特徴という風に言われてるだけなんですよ。
特徴があるからこうではなく、こういう訴えをする人が多いからと特徴となり得た、というのが正解だと思います。
うつ病が広まりだした頃に病院に行ったけど......みたいな人も居ましたしね。ネットで当てはまる特徴を元に病院を診察したら、医師からNoと言われた。
そして、安心したのでもう大丈夫でーす。
うつ病じゃねーよ、お前は!っていうね(笑)
そういう精神疾患ですら、表に出てくるまでは特徴があって訴えてても、甘えとか怠け扱いで鞭打たれてたという時代もありましたし。
そういう感じで、特徴が定まって基準となり、扱われる様にならないと説得力もくそもないんですよ。その特徴って。
それを、診断基準がないという段階で扱って、自分はHSPですとか、正直自分に甘すぎて、それこそ既に症状ともされてる自己愛が関係した部分だと思います。
寧ろこっちを疑う必要あるのでは?というくらい。
え?自己愛が関係する部分?
自己愛性パーソナリティ障害ですよ。少し前から突くようになりましたけどね。
と痛い事をいいましたが、じゃあどうすれば?という話も。
本当にそうあるなら
自ら察して、調べて、学んで、掘り下げて、比較して、分析して、記憶も探ってみてと、色々自分で出来る事をやって、自分の言葉として自分で表現できます。
キッパリ。
感受性が高いってタイプならお手の物だと思いますよ。幼い頃からそうありましたし。
まぁ、生まれつき持ってたからそうあっただけですが、成長する段階で養えたとしても、自分の言葉で説明出来るレベルじゃないと、やっぱり甘えだと思いますよ?
自ら、周囲の言葉を受け入れる形で、おかしい人、変わった人、妙な方向に想像が働く人、思考も言ってしまう人と、自分でも言えるくらいに兎に角オカシイ尽くめなんですよ。
でも、おかしいおかしい連呼されるだけだと、やっぱり感情が動いて頭にくることもあるので、説明出来る材料を色々隠し持つようにもなりました。個人としてね。
今でこそこうあるものの、その時その時で、やっぱりお前は変わってるというのは変わらず言われ続けてます。
なんでそうなるのか?も調べたり、尋ねたりして、周囲にはそう見えない、気づけない、感じとれないという部分に、余裕ってレベルで気付いてるからそうなるって自分で自分なりの研究っていうんですかね。そういう事もしてるし、すると思いますよ?自然と。
そう言うのも、感受性として”自分自身から感じ取る”事で、モヤモヤや不安、違和感を払拭しようとするのも人間なんですよ。
だからこう、特徴やチェックリストにハマり込むのはおかしい、自分で調べて、調べるだけじゃなく、比較や熟考もしてと色々手を尽くしたうえで、記事に起こしたりしてます、よ。
諺とか慣用句なんかが特にそうで、思い込みからの間違いを気づかずにやってるってよくあるパターンなので、こういう記事に起こす時は、必ずチェックするくらいです。
この言い回し使っても大丈夫かな?って。
それは、自分として、自分の発言に責任や覚悟を持つためという部分もあって必ずやる様にしてます。特にこう表立って情報発信です!ってつもりはなくても、ネットで自論なり言説を書くってのはそういう事です。そういう受け取られ方をするので、それなりに予防線として責任や覚悟、その為の準備をする必要性もありますよ。
リテラシー=読解記述力、ってね。そういう言葉も出るくらいなんですから。
共感についても、情動的共感、認知的共感、空想、個人的苦痛と少しばかり出すようになりましたが、共感とか共感性で済ませない段階に来たという感じでね。
正しい間違いではなく、何でこういう事言ってるんだ?って感じでね。感受性高ければ、何がどうあれ、誰が何と言っても、違和感感じまくりなんですよ。
日常的に。なので、調べて知って、自分の物にして表現する。
そのくらい出来るでしょ?とチクリとやっておきますかね。
共感にある空想の話
俳優、女優、役者という人がイメージづくりをして、そのイメージの人物像に感情移入をするような共感として、空想というのがある。
と、最近書くようになりましたが、個人的には着目してる所だったりします。
あくまで、個人的に。
個人のエピソードとして、相談上手だったり、話を聞いただけで他者の事をほぼほぼ言い当てて事が進んだと話されたという部分には、必ずこういう空想に近い部分が関わってます。
自分で記事を書いてても、誰かから話を聞いてても、ネットで色々みてるだけでも、自動思考の働きとしてイメージ化ってあるんですよね。勝手に頭の中でイメージが出来上がって、そこから状況や状態の推測、そこで発生する感情や心理の動きなんかも、思考したり、分析したりしてるんですよ。
無意識、無自覚ですし、だからこそ自動思考じゃない?これはと言えてしまう程に、日常的かつ当たり前のようにやってくれます。まぁ、脳が勝手になんですけどね。
で、こういう部分も今だからこそ説明出来るようになったのですが、幼い頃から全然変わんない。当時はおかしすぎて否定されてたから、埋もれてしまったというだけで、ホント変わらず同じ状態が続いてます。
それ程に、おかしいんですよ。自分で、ホントおかしなヤツって苦笑いも余裕で出来る程におかしいです。
そういう意味では、感受性って解明しようとすると、共感って部分も合わせてみたいな所はあるんじゃないかなぁ?と個人的には感じたりしますし、だからこそDOESだったりEに共感性って入ってきたりしたのでは?という感じで。
ほんとこう、人間関係だったり、陰と陽、善と悪だったりと世の中の色々でも多く見られる、一方的な関係性ではない、相互の関係性みたいな見方も必要じゃないかなぁ?って思います。
これはもうHSPに限らず、正しいだ、悪だ、なんだかんだと、一方的が増えるほど世の中には、不安や悪意、ストレスが増えて言ってるじゃん?っていうね、流れが既に見えてるんですよ。個人として。
そういう意味では、循環って部分から学術的な触れ方で、陰陽五行説とかも一度触れ直した方が?とも思います、よ。
温故知新、っていうじゃないですか。そういう事です。
あとがき
ほんとにね。日本語って便利すぎて困っちゃう。
でも、だからこそ、扱いが世界一難しいとか言われるのも納得してしまうというか。
世界一習得が難しいとされてるようですよ。
普段使ってるとそう思わないのですが、語呂合わせとか、韻を踏むとか、字面から察するとか、そういう事をやると、おかしいだけでなく、スゲェとかも言われるんですよ。
感覚処理感受性、という言葉もね。実際にそうある身なので、感覚的に受け取る、気付く、感じとる、そしてそれを脳が勝手に処理してくれる。
おお、これはなるほどでしかない...ってくらいに、名前だけで凄い説得力があるんですよ。日本語凄い...みたいな。
そうして言葉から色々受け取って、内容に触れると、やっぱり研究される事=究めて研ぎ澄ますという感じで、追及する、議論する、解明しようとする姿勢って大事だと思うし、それを貫けてる研究者というのは凄い一面を持ってますよねって、良い刺激を受け取れるんです。
だから、研究してくれてる人には感謝もする、と。
そして、そうあるからこそ、触れてほしい、知ってほしいって、言ってたんですよ。
でも、それは叶わず、というかなんというか。
深い処理。それって、単純に色々思考して処理するってわけでもなく、言い分や表現すらも、前に出しながら、深く掘っていく事すらできてしまう。
なので、思い悩むとか考え込むとか、表層で止まってる人が、それを深い処理だなんていうのは、何も分かってないどころか、既に思考が表層で止まってるじゃん?っていう証明にすらなってしまう。
答えが出ずに考え込むなんてのは、どうしよう!ドラえもーん!なのび太くんと同じで、走り回ってぐるぐるしてるだけ。ITっぽく言うなら、ループ処理です。
ループ処理とか初歩の初歩じゃないかなぁ...。
なのでこう、多角的に見たらいよいよもって、掘り下げなんて出来てないっていう、どうしようもなさの露呈っていうんですかね。
そういう物だと思いますよ。
自分に対して冷静さが足りないようじゃ、他者に対しても同じだろうし、感受性もその程度で終わるでしょ。
と、冷たく、厳しく、グサっとやったりしつつ。
今回はこれにて。