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経験から語ってみる14(理解の外という話

こうして、言語化して記事にする。

そうしてみると、自分ですら改めて、いやさすがにこれはなぁ...という感じで、実際にそうやって生きてきたので言える割に、文字にすると途端に過ぎた部分、おかしい部分が出て来てしまう。

なんともはや、自分で言うのも馬鹿らしい。

そう書く事すら馬鹿らしいと表に出した途端に、自ら掘り下げて客観視からの一般的な判断からの物言いも出来てしまう、自分の感受性。

そうあるからこそ、色々懸念やら問題やら軋轢が嫌でもイメージ化すら即座に出来てしまうので、普段は出さない。

うーん。まぁ、そんなタイプなので、疑問や違和感を感じる事って凄く多すぎるんですよね。

という事で、今回は敢えて外側に立ってからの物申すを再び。

そんな感じの内容になると思いますし、痛い所突かれる可能性もあるのでご注意くださいませ。

流石に、経験者だからこそ、もう今までみたいに流せない、なぁなぁという感じにしておけない。そういう段階に来ているという感じで、経験があるからこその40年分の色々が出てきますので。


子供を引き合いに出す事

幼稚園児の時点で、大人がどういう行動や対応をしたと言っても、舌を巻くというような言動や行動をしてた経験からすると......

見てないでしょ?

ってね。

単に”自分の理想を言いたいが為に子供をダシにしてるだけ”

こう言うのも気づいてたんですよ。幼少の頃から。でもつつくと大人が怒り心頭という感じで怒ってくるので言わなかっただけで。

そして、話せる人が少ないだけでなく、同世代に話しても「そこまで見えてんの?考えてんの?」って感じで、明らかにおかしいんですよね。しかも、そんなのおかしい、有りえないと、同世代からツッコミを受けるという。

そういう意味では、個人として年代の差である老害とか若者なんてのも凄く馬鹿らしいし、まだやり続けるんですかねぇ...ってため息ついたり、肩を落としたりと、やれやれしてしまうもので。

そういうタイプなのでね、記事を書き上げた時にハッシュタグを設定するじゃないですか。そして、ある程度入力すると候補出てきますよね。

HSC=子供のHSPのタグ使おうとすると、HSCママとか出てくるんですよ。

で、母が亡くなり際に話した事ってのを記事に出すようにしたのが、こういう勘違いしてそうな人が居る事が観測できてしまったから、というのも理由の一つなんですね。

ただでさえ、真面目過ぎだ、気を遣いすぎだと、嫌でも言われるタイプの人間を育てた母ですら、後悔するレベルなんですよ。っていう、遠まわしの牽制の為に、ね。

そうしないと、直接ぶつけると、人間だし感情もゆらされる。それだけでなく、それを誤魔化そうと、異な者として扱われるんです。という感じで、既に経験してるので、可能性レベルではなく、それこそ未来の予測レベルで何が起こるかが手に取るように分かってしまう。

感受性が高いって事は、恐らく共感の部分も高いし、自然レベルでも色々してしまう。

だって自分がそうだもの。

そういう身からすると、正直な所「ガチで手に負えないですよ?レベル次第では」

ホントね。

自分の子供凄いのよ~、HSCなのよ~。皆が皆そうじゃないけども、そういう子の母親という感じで、子供を使って自己肯定を上げてるだけって人も居ると思います

そういう人が居るから傷を負うし、概念の提唱がされ、研究者が研究して解き明かそうとする。

グサリ。そんな感じで図星に刺さったりしません?それを、幼稚園児でもやってのけてたので、親ですら怒鳴りつける機会も多かったんですよ。

そして、幼い頃から口にして言わないだけで、そう言うのも全部感覚的に気づいて察してます。だから、うちの母は守ってるつもりが守られてた=私が配慮する事で回避できたことが多々ある、という繋がり方もする。

HSCママとか、何を知って、何が理解出来て、どういう理由からこんなタグが作られたのか?

ヤレヤレしてしまうという話です。

こういう人が居るから、ケアをしてあげて、見守ってあげて、じゃないと大変だし、傷を負うからと、そうなってしまった自身として声あげとるんじゃい!っていう、ね。

概念があるから言ってるんじゃない、経験者だから言ってるし、だからこそ口も酸っぱくなるんですよ。

うん。


生きづらいだなんだ

そういう経験を幼い頃からしてるし、だからこその辛さ、苦しさ、悩み、葛藤って言う部分は理解できてます。

ただ、どうしても経験を重ねる上では、置かれた環境、遭遇した状況、周囲にいる人々とその対応、とどうにもならない部分がそれぞれあるので、敢えて、自分の辛さから主観的に生きづらいだなんて事は、言わないです

違いがあるから、類似性からの共感は出来ても、その時その時で受けてきたダメージは個人の物なんですよ。共感したところで、実際に受けたいたみってのは本人にしか理解しえないんですね。

そして、上辺だけで共感する様って、わかってる”つもり”でしかないです。

感受性だけでなく、共感や共感性でも、ね。申し訳ないけど、その辺に居る人と大差ないですよ?

単純に調べて知識を得るだけでなく、病院でカウンセリング受けたりして結果の確認すらもしてるんですね。個人的にですけど。

こう言うのって上辺だけ見てると気づかないでしょうけど、私が扱える武器ともなり得る部分で、こういう記事にして言語化する事で、貴方はどうですか?と問いかけながら、暗に刺す事が出来る様な経験の話でもあるんですよ。

メンタル病んだのも、結果として「過ぎてると評価されるもの」を持ってしまったからであって、そうあるからこその苦労や負担ってなんやかんや言う割に「他者は見ない、聞かない」になるんですね。

自分が取り上げたいところだけ取り上げて、都合の良いように扱う。面倒事を抱えやすかったというのは、そういう他者が見せる無責任さ、いい加減さという表れなんですよね。

お前何様のつもりでそんな事言うんだ!

って、出てくるのが想像するに容易いレベルなので、表に出さずに抑えてるという話もする、と。

まぁ、こう言うのも実は実験として、実際にぶつけて見たこともあります。社会人の頃に。

止められました。気持ちは分かるけどって。

何がどうあれ、そういうつもりはなくとも、他者の過ぎてるを安易に口にする人って、人としての判断が「この人はこういう人だから、申し訳ないけど...」という、集団の維持の為に敢えて見逃してるという事もあります。

そもそも、何度となく幼い頃からやり取りしてきましたが、

他者:過ぎてる、私:普通レベル、この構図にしかならないんですよ。で、他者がどう判断しようが、行動してるのは私自身。現実をどう見てどう判断してるのか?というのも私自身がやってるので、どっちが正しいか?ってなると、ねぇ。

やってる本人の話では無くて?

ってなるんですが、先にも書いたように集団生活ではそれが受け入れられないとか、軋轢の元とか、そういう感じになるので異な者であると同時に、腫物みたいな扱いもされるんですね。

これも、幼稚園の頃からずっとそう。結果メンタル病むわ、色々あり過ぎて体が拒否反応すら自然とだすようになったので、社会から離れて生活してるんですよ。っていう。

思い出さなくても、体が自然と「もう止めて...」って感じで、吐き気やめまいを発生させてくれて、動きを止めに来る感じなんです。

それでも、生きづらいとか、生きやすいとか、語ろうとも思わないし、何がどうあれ自分が向き合う事も最低ラインで必要なので、他者にそれを言ってぶつける意味が皆無なんですよ。

そもそも、難病だ、身体障碍だと、色々人それぞれ辛い部分、ままならない部分、思い通りに出来ない部分を持ってても、前向きに生きてる人が居るんです。

そういう人達に、共感できずして、どんな感受性ですか?

と、グサリ。

敏感で繊細で生きづらさを...。

敏感すら通り越して、鋭敏じゃないですか?そのレベルは、って最近も言われましたよ。その位あります、個人として。

受け止めてくれる人からすると、それはもうメンタル病んで当たり前。それどころか、そこまで行って休んでても辛くないですか?っていう言葉を向けたりしてくれます。

そういうレベルです。個人的に。

やれやれだ。ホントやれやれなんですよ。

言葉を使って、楽な方に逃げてんじゃねーですよ......。

あくまで個人としてそう思うだけなのですが「その逃げの為に、研究者は研究してるんじゃないんだから、ふざけんなよ?」とかも、言いたいくらいです、よ。


どうにもこうにも限界という物はあるもので

ホントこう、季節的な気分の沈み、抑うつもありますが。

そこに加えて、そういう嫌って程見てきた、人間の在り方、有様すらも、見逃すとかスルーするのも、限界に近いんですよ。

こういう部分が、良い人過ぎるとかよく言われたりもします。

なので、幼い頃から日常で見られる色々に対しては、怒の感情すらすぐに湧き立ちそうなくらいですが、抑えてます。怒っても仕方が無いし、怒りに飲まれて言葉を叩きつけられる事の辛さを身をもって実感してるから、他者にしたくないって事で抑えてたりもします。

もう、メンタル病んでるのに、何やってんだ私はって、嫌でも呆れ笑いすらしてしまうくらいです。

感受性が高くて、感じとり過ぎてしまう。それでも、人の頭の中を覗く事も出来なければ、目に見えない感情を理解出来るわけでもなく。言葉から推測してるだけに過ぎないのですが、その言葉に対してもIQで示される数値の外側だなんて言われたもんだから、どうしたもんかねぇ、でもあるんですよね。

今回はこう、記事にして出してますが、それでもまだ、抑えてるんですよ。言葉にトゲが入り過ぎないように、多少は仕方ないけど、同じレベル、もしくはそれ以上の感受性を持ってる人には刺さり過ぎないように、他色々。

気を遣いながら、配慮しながら、その上で出来る限りの「言いたい事を言う」をやってるんです。

変な感じですが、イメージとしては二重、三重にすら配慮を折り重ねてるっていうんですかね。どうあがいても、突き抜けて刺さる事があるので、完璧は無理ですか、少なからずそうならないように、自分の言葉が付き抜け過ぎないように、上に重ねてって感じでね。

こう言うのも、しなくていいと思うのですが、感じとってしまうからこそ、自然とやってしまうんですよ。

他者からすれば「そこまでしなくて良いんじゃない?」なんですけど、そう言って迂闊に、安易にだすと、即座に自分に跳ね返るっていうね。お前さんその辛さわかるかい?っていうと、わかんね!にしかならないので、なら黙っとけっていう流れもあったりします。

そうあると物の例えではなく、本当に感受性とか共感とかそこから来る配慮とかが同じくらいやれないと、言う事なくなってしまう、にもなるんですね。

そして、こういう掘り下げた先でも、どちらが正しいとか、間違いとかそういう話ではなく、好きでそうあるわけでもない違いがあるので、自由だ、権利だは配慮する必要があるし、それで自分が苦しむのもやむ無し。多少は我慢しないといけないですよね、っていう。

そうあったからか、小学校高学年の頃に、お前は修行僧か!とか、言われたりもして、はぁ?してました。

なんかこう、自分から厳しい中に入り込んで修行してるようにみえる、だそうで。

そうじゃない。

もう、感受性だ、カウンセリングだでも色々示されたので言える事ですが、厳しさだけに突っ込むんじゃなくて、優しさにしろ、真面目さにしろ、突っ込み過ぎたところに自然と行ってしまうんですよ。

それこそ、無駄に周囲が過ぎる、過ぎると「とりあえず、そう思うから言ってみた」という、安易な行動に出るほどに、自然で普通が過ぎてるラインになるだけであって。

そうあると、面倒も過ぎてしまうんですよ。過ぎるほどに面倒の方から近寄って来てくれるっていうんですかね。

メンタル病んでままならなくなったという現実があるものの、それはもう現実という環境からの叩きつけとも言えなくない位に、もういい加減休んどけって言われてると自然に思うくらいなんです。

そのくらい、人の世の外側に立ってるって言うか、ね。

至らなかったり、うっかりだったり、やってしまうって部分もあって変わらないし、そういう部分も観測してるのに、表に出てくる要素が自分と違うから。

なんかこう、変わったヤツ扱いされて、久しいんです。うん。

私達は貴方を知らないから、は大いに結構です。

ですが、言動や言葉の扱い方、文章への起こし方とか見てると、これは今までに出会ったその他大勢と同じ様に、傍に居て混ざってたら、過ぎてるっていうんだろうなぁ、だって自分に甘いんだもの。

HSPって言葉に安易に飛びつくと、その先には、虎視眈々と人間の愚かさを見つめてるような、人の形だけしてる何かが居る可能性があるんです。

この表現は、自分も人間で怒りの感情を持ち得るので、そこから喉元噛みつきますよ?っていう感じの意味であって、自分凄いじゃないので、そこは勘違いしない方が良いと思います。

まぁ、口うるさい事は何度も記事化してるのでね。

言わなくても良いとも思うけど、自分と違うって感じでスルーしてるんじゃないかねぇ。

やれやれ、なんですよ。


あとがき

これはもう、蓋が開いてしまったかなぁ...

自分の中から溢れてくる物を、嫌でも実感しつつ。その反面、自分から進んでやって来てた事だけど、よくこんだけ我慢したよね?って、自分で自分に苦笑いもする。

まぁ、普段から言ってますが、これが正しい、間違いという話でもなく、そうある個人が好きなように自論展開してるだけ、とも言える話です。

ただ、見つめてしまったら、痛い部分はあるんじゃないかな?くらいにも思います。

実際問題として、子供の頃は人の世の道理としての、本音と建前や長い物にまかれる、どんな形であれ配慮をするというのが分かって無かったので、これより更にストレートにだして、跳ね返ってたってのが実際の経験で。

言葉にしろ、思いにしろ、何にしろ言いたいだけを言ってしまうと、因果応報の自業自得なんてのは、幼稚園児の頃に既に何度も学ばされました。

うん。

いやまぁ、その、自分としてはね。もう少し受け止めてもらいたかったってのはあるし、でもそれが叶わないって事で、敢えて周囲を敵認定する事で感受性を活かして生き残るっていう選択もしたわけです。

そういう意味では、根っこが深いと抑うつレベルでももう、薬とか自分の向き合いだけでは、どうしようもない部分も見え隠れしてるんですよね。

だからこそ、体が拒否感を出すし、その体の反応に従ってもう無理はしないようにしよう、出来る所まで。というのが現在の生活だったりします。

そして、そういう選択は何がどうあれ自分でやってるので、お金が足りない、やりたい事が出来ないのも当たり前なので、多くを望まず、襤褸は着てても心は錦で過ごしましょうかね、そんな感じ。

そして、最後にね。

サイコパス=著しい共感の欠如とか、大人しくて真面目な人だったのに、とかそういうのも、もう少し突っ込んで深い所まで行かないと。なんていうかなぁ。

自分の中では既に厳重すぎるほどの封印がなされてるだけで、共感性の反転なんか起こそうものなら、間違いなくそう言う人間になる自信もある。ただ、封印が厳重なのでそうならないけど、とそんな感じにもあります。

そうあって、余程が無ければ自分はそうならないとしても、大人しくて真面目とか、共感性の欠如とかも、反転させるとどうなるのか?っていう相互の関係性みたいな、見方をする必要があるんじゃないかなぁ。

という事は触れておかなきゃいけない様な気がする、ここ最近になって強いんですよね、こういう部分。

って言ってみても、中二病乙とか、オタク乙に映るんだろうなぁ。

まぁそれも良いんだけど、これって想像力が豊か過ぎるとか、そういう部分の表れでもあるので、想像、推測、可能性の考察とか、バカに出来ない部分を持ってるタイプも、ね?

という事で。

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