話題性、流行り、多数派への迎合
歴史を振り返ってみても。
それぞれの時代にある、様々な差というのは見て取れますが、おおよそ人そのものは相変わらずなのである。
というような部分が、歴史に触れてるだけでも見えてしまうのに。
時代の流れだろうが、そういうのを作ってるのは人間で、そこには沢山の人が居る。
ふう。
オタクと言う言葉が、ホントこう、蔑みで。
キモいだ、汚いだ、臭いだ、訳のわからないどころか、実際に中身がない。汚らしくもなければ臭いもしないのに、オタクだから、という部分だけで虐げられてた時代を実際に経験してるので、ね。
ほんとこう、多数派が〆ただけな部分を時代が変わったとか。
正直、現代なんて時代が変わりすぎ問題で、実際に扱う人が追いついてないから、話題性や流行りでホイホイいれかわるし、それを利用するかのように常に、話題性って溢れてる。
そういう環境下に居て、人それぞれ、個人個人が変わらなければいけないのに、変わろうとせず、流行りや話題性、それをもたらす情報だけで、
時代は変わったから(ニッコリ
だなんて、流石にあほらしくなってきてやがりますよ…。
おおよその人が保守タイプ
ほんとにね。
いくら言葉で繕っても、そういう部分が見えてしまうタイプからすると、ほとんど保守的な人しか居ないんですよ。
変えようとしてる人も、自分の都合、自分の理想、自分の現状が大事なだけで、本当の意味で深い所から変えようとしてない。
だからこそ、芯がない。
それ故に、人を集めて多数派を形成して流れを作りきろうと言う様は、ザ・保守的と言わんばかりに、自分以外の誰かや、世界情勢、情報の深い部分に触れないまま上辺だけで押し流そうとする。
結果発生するのが、感情が伴う理想論ばかり。
それを時代が変わった。
自分が変わってないのに、時代に乗れてるから、自分は変われてる。
そう思うことで、過去の歴史から全然変わらないことをやってる自分は変われてる事にしようとしてる。
そうあるからか、傷ついてきた過去の話には、
自分は関係ないから知らないし、流しなさいよ
時代が変わったからという、簡単な言葉で心の奥底についた傷に、更に塩を塗り込んで悪化させるような真似、言動すらしてくるのだから。
おおよそ、その他大勢って昔から変わんないよね。
色んな意味で少数派。
少数派というか、個人ベースが兎に角違いすぎると、様々に言われてしまう。
そもそも、時代が変わったなんてのは、前の時代から経験やら何やらがないだけでなく、それに対して寄り添ったわけでもないので、芯がない。
それほどに軽い言葉を平気で口にするというのは、
おおよそ、保守的な人でしかない。
個人としては、結構さめざめして世の中眺めてたりします。
受ける、受け取るという話。
環境感受性という概念に触れると、
環境から受ける影響、その受けやすさ
というような話が見えてくると思います。
感じる、気づく、察するとは言うけれど、何を感じ取ってるのか?は、あくまで予測や可能性。でも、不思議と口にすると驚かれたりするし、それ故に相談上手というか、相談相手にうってつけとか言われもします、個人的に。
そうあるので、Wikipediaを読む程度でも納得できるんですよ。
環境とはいえ、様々に言い換えることが出来ると思います。
例えば学校。
学校には校舎、運動場、体育館、小学校なら遊具などを含め、そういう学校という敷地の中にあれば学校という環境になろうと思います。
ですが、その学校も、学年で階が指定されたり、更に踏み込めばクラスという形で教室も指定されてるので、そういう学年も環境だし、クラスも環境とも言える。
こんな感じで、環境という言葉も、大小様々に置き換える事が出来るので、日常生活の中で、意識せずともいろんな環境の中を渡り歩くのが今の時代だと思います。
そんな中で、自室を出るだけ、自宅というスペースですら、何かしらの影響を受けるかのようにスイッチが入る感覚がある。
また、通学や通勤のために家を出たり、友人や同僚と遭遇したりというのは、そういう大小様々にある環境の中の変化とも言えて。
そんな感じで、自室、自宅、外、道中、到着して以降、と。
常々何かを受け取る、何かの影響を受けるかのように、自分が切り替わりすぎてるという事すら実感してたりします。
なのでこういう、環境による影響を受ける、というのもあっという間に納得できてしまう。
対人関係だけで、色々感じるだけ。
苦痛と思ってしまうほどの音や臭いだけ。
その程度じゃ済まされないんですよ。日常の中で常に自分自身が何かしらの影響を受けるかのように、切り替わるのを感じるくらいですし。
それ以上にね?
苦痛に感じなかろうが、光も音も臭いも、常に感じ取ってます、間違いなく。ただ、そういう部分は苦痛を感じない、問題ないと処理されるからか自身が反応していない、というだけです。
そういう部分からも、常に影響を受けてるものの、自分自身だけでなく、自身の体がどう反応してるのか?というのは、常につきまとってるんですね。
で、そういう部分すらにも気づくだけでなく、周囲に居る他者が無意識のうちに感じ取って反応してる様すら、見えてしまってる。
なので、人間が見せる変化への対応、反応のパターンなんて、幼い頃から嫌でも見えてしまってたので、相当にデータ取れてるし、その中で類似や一致という部分も持ってます。
だから、相談だろうが指導だろうがうまくやれるという部分もあり。
そうあるので、Wikipediaだけ見ても、おおよその事が、なんとなく把握出来るからこそ、情報源だとして活用しなくもないんですよ。
なにも、感じる、感じ取るだけでもないんですよ、ね。
何故触れようとしないのか?
人間社会、世の中にある物ですら、様々に層を成してて浅い、深いと言い換えれる部分が無くもない。
人間関係ですら、深い関係、浅い関係というように深度が示されることもある。
それどころか、個人ですら表層意識だけでなく、無意識や、更に深い部分。深層意識みたいな部分もあるほどに。
感じ取りすぎる、影響を受ける、どういう事にしても、あやふやや曖昧であるからこそ感じられる、違和感というものがあると思うのですが。
そういう違和感を感じ取れないからか、深い所に触れようとしないっていうのは、なんともはや。
彼を知り己を知れば百戦して殆うからず
というのも、相手の深い部分、自分の深い部分に触れる、触れようとする、そこから色々得て云々……。そういう感じなんですよ。
策というのは、無意識でもやってる人の”読み”みたいな部分ともいえなくもないです。その裏をかかなければ、策を弄したところで、策士策に溺れるになるからこそ、相手も自分もよく知ろうという、そういう格言的なものと捉えられもする。
小学校高学年当たりから、周囲が流行りだ何だと乗っかるようにある様に対し、
流行ってるからって、それが何だというのか?
流行ってる、多くの人が触れてるばかりで、それの良さを伝えられずどころか、伝えようとしてないのに、伝わらない私におかしいだ、変だ、そんなだからオタクになるんだ、と。
人ってそういう、自分の主観が過ぎて当たり前、というのが見え続けてるからこそ、人の振り見て我が振り直せ、も相まって、知ろう調べようという事に繋がりもする。
うん。
話題性や流行りに乗るだけだと、ダメなんですよ。
議論や討論にならないのも、なったら打ち負かされるだけというのを、無意識に感じ取ってるからなのでは?
と思えるほどに、日常でそういう状態に遭遇してきてます。
そういうタイプからすると、ねぇ?
何故、深いところにある、根底=出どころとも言える部分に触れようとしないのか?という疑問は湧いて当然というか。
自分がそういう人だと言わんばかり…。
だからこそ、自己愛性云々だとか、痛いことも言うんですよ、ね。
上辺だけじゃ無理がある
感受性って誰しも持ってるものだし、個人差、影響を受けやすいというだけでなく、影響を受けるポイントみたいなのも違いがあります。
という、大前提をすっぽかさないで欲しいと言うか。
よくある特徴に一致するだけではありえない。なんて個人が言うのも、それ以上に色々ありすぎて大問題ってくらいなんですよ。
兎に角、影響を受けすぎ、感じ取りすぎと言う感じなので、様々な環境下、状況下で、おかしいって言われてしまう。
そういう様々な差の中で、一致度が低い特徴って切り捨てられもするもので。その人だけが見せてるもの、としてね。
特徴といったところで、そういう表に出てこない特徴があって当たり前。
良くも悪くも社会人してた頃に、分析や品質管理の仕事をしてたので、研究所に出向して、研究員してたこともあります。
そういう、経験からも知ってると言うか。データって公表するために整理しますし、その中には除外されるものってやっぱりあるんです。
その経験で全てを語れないわけですが、よくも悪くも、感受性が高いと言われるし、様々な部分で違いが過ぎる、気づきすぎ、配慮しすぎ、察しすぎと言われてしまうので、ね?
流石に言えてしまうんですよ。
目に見えてる特徴が一致してるだけ、とか、片腹痛いですよ、と。
また、HSPだという言葉に飛びついて無くても、自分で向き合って生活してる人もいると思います。
そもそもが、誰しも持ってるもので、自覚できないまま感受性と付き合ってるはずなんですよ。
それがこう、ね?
話題に上がったから、と。それ以上に話題の挙げ方には、
LGBTQの次に当たる、権利や自由を主張する言葉にするための準備
というのも、見え隠れしなくもないというか。所謂、主張からの人権派なる人が、活動のための燃料にしようとしてるという、裏の裏の裏、そういう部分があるのではないかな?と。
LGBTQですら、多くの人が居て、話題に上がる主張をする人ばかりではないんです。
なので、逆に迷惑と感じてしまってる人も居るし、それぞれが考えてLGBTQにする必要があるのか?という疑問視する声すら上がりつつあるんですよね。
学校教育が実を結んだのか。
高校生や中学生くらいの若い子たちにも、そういう言葉で見るのではなく、個人がどうあるか?を見ることを考えてくれるようにもある。
結局が、人としてどのようにあるのか?というのが問題で。
それを、性別違和だ、異性装だコスプレだ、LGBTQだ(他のタイプも居るのに)と、言葉だけで向き合おうとする人の世の様が問題なんですよ。
LGBTQに関しては、少し前に個人として、こういう事を考えてくれる人が居ると、感動した事があるのですが、まだまだ10代の学生さんだったので、凄く嬉しかった。
うん。
言葉がどうではなく。
自分自身が、そして他者や周囲が、人としてどの様な人なのか?どの様な部分を持ってるのか?そういう所を見るようにしないと。
うつ病や発達障害すら、症状や言葉と向き合う人が多すぎで、個人に向き合ってないから、当事者として情報発信してる人すら、別な当事者を傷つけてる。
そういうのは、あとに残さないようにしていかないと。
いつまで経っても、ツケや悪い部分が後世に持ち越すのは、止まらないと思います。
ほんとこう、HSPっていう言葉ですら、そういう人や社会、世の中の流れと有り様と言う部分すら、自然と見えてくるし、気付ける事って多いくらいなんですよ。
言葉だけしか見れないようだと、ダメだゾ?
あとがき
言葉や概念で、自分や他者を推し量るのではなく。
人として向き合って、何がどうある人なのか?
そもそも、自分自身とすら向き合えてなさそうな人も多く感じます。なので、こういう部分を少しずつ変えていかないことには、言葉や概念だけでなく。
肌の色や国、宗教ほか様々な様子から排他的になるのは人の性でもあるので、変えようとするなら、根底をしっかり抑えていかなきゃいけないのに。
事が起こると騒ぐだけ。
そうあるから変わらない、変えれないというのに、そこには必要以上に声を上げたからこその諸刃の剣になるからか。
自分を振り返ろうとしないに繋がる、悪循環。
良いも悪いも、相互関係です。過ぎれば反転して跳ね返るもんです。
それ故に悪循環=悪い意味でのループを生んでしまって、もうどれだけ過ぎてるの?ってくらいにあると思います。
物心ついてから見てても、40年も。問題視する割に、向き合おうとしないから変えられてない。
とはいえ、出来る範囲で、周囲の知人友人に話したところで、
只でさえお前は真面目すぎだから、人が良すぎだから(笑)
と。それは違う、と何度言ってもダメで変わらなかったからこそ、黙って付き合って来たけれど。
そういう部分が絡む感受性、HSPという心理学の概念を面白おかしく扱おうっていうなら、忍ばせてたものを抜かざるを得ないというか。
母が亡くなってから、自身の鞘が無くなり、刃がむき出しになってしまったと感じてて。それで、どうしたものか?と、なんとか隠して来てましたが、抜いて振りかざさずを得ないでしょう。
うん。
ホントこう、ね。
研究って見えない部分があるからこそ、解き明かそうとするような物でもあって。
その結果で出てきたからって、全部が全部明るみに出るわけでも無く、技術的な限界という部分からも解き明かされずに、隠れたままになってしまう部分もあり。
だからこそ、常に新しい事が世に出続ける、とも言えるんです。
そういう部分に触れてるんだから、相応の事をやらないと。
世の中に、いびつな歪みを作ってしまうだけなんですよ。
ホントこう、ね?
自分がどうこうではなく、自分が何か感じやすいなら、人もそうあって当たり前。
違うおかしいって散々に言われましたけど、そういう差があれど、それぞれ温度差というか、程度の差があれど、何かしら感じてるんです。
誰でも、ね。そういう部分にある要素の一つが感受性というもので。
HSPかどうか?ではなく、感受性って何なのか?
それを考えないといけないと思いますよ、と。
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