客観、客観視という話
自由もいい。
権利も良い。
でも、ワクチン接種会場で妨害みたいなのは、他者の自由と権利の侵害になる。
なんて言うかこう、自分しか見て無さすぎなのでは?
主観に拘りすぎると、兎に角視野が狭まり過ぎるどころか、行き着く先は狭まりすぎたがゆえの”正義中毒”という、ね。
流石にこう、頭が痛い・・・に、なってしまってます。
客観、客観視とは?
客観
客観視
主体と客体とも言われますが、掘り下げ過ぎるとアリストテレスという名前も出てきます。なので難しさも出てくるわけですが、簡単に言っても
主観=自分が主、主体としての見方
客観=特定の立場にとらわれない。それは自分すらもなので、個人の感情や利害からも離れる。
冒頭に上げたワクチンにしても、法としての自由の範囲であれば、言うのも、個人の行動にするのも自由。
とはいえ、いくら正しいと思ってても、周囲どころか、接種会場襲撃という自由は認められない、と。
こういう部分にも、主観と客観は大きく関わっていると思います。また、そこからは、善悪どうこう以上に、
「人の振り見て我が振り直せ」
悪い行いに感情の赴くまま、言葉や感情をぶつけるのではなく、流石に公安やら警察が動いたようなので、そこはお任せして。
自分はこういう事しないようにしないとなぁ・・・。
戒めとは行かずとも、悪い見本お手本は、注意に変えて自分の中に落とし込むという事を、改めて言わないと行けないのかなぁ・・・?
流石にこう、関係はないわけですが、頭痛い・・・と言葉が出てしまいます。
客観視が使えてなさすぎでは?
何ていうんでしょうね。
HSPという言葉も、ね?
自分の事ばかりという、まさに主観あふれる様を見せてるだけでなく、客観視が使える側からすると、
「はて?何を感じて、何に気付いて、そんなに自分上げしてるの?」
という、類似性にやっぱり繋がってしまいもする。
HSPにしても、自分だけ、自分と同じだけでなく、それ以外の方が大多数ですから。
自分だけ見てれば良いという物でもなく。他に居ないか探す上でも、自分と同じ人は除外して探すと思います。
んが、なかなか巡り合わないどころか、主観しか扱えてない人が多すぎでは?
HSPだなんだに限らず、様々な人=性格も、考え方も、育ちも、何もかも違う人と集団で、社会を形成して生活するわけですから。
自分だけ=主観しか使えないようだと、そりゃ、ね?
「苦しくて、当たり前、ですよ?」
他者との関係がうまくいかないのも、相手だけでなく、自分に原因や理由がる可能性もある。
それが、社会や集団生活です。
家族レベルですら、自分が配慮してる”つもり”なだけで、家族の方がそれ以上に配慮してるのかもしれない。
自分しか見えない、主観しか扱えないと言う人は、ね?
自分以外が目に見えてない人が多いです。故に、いくら敏感だとか、繊細だとか、言葉を使うだけの時点で、アウト。
篩い分けでは落ちる側。
そう思います。
主観も大事ですよ。そうしとかないと、自分が疎かになるだけでなく、ストレスや不安を抱えますから。
でも、客観も扱えないと、苦しい自分に意識が行くあまり、
「他者を害してる可能性も大いにある。それこそ”つもりはない”とか逃げながら。」
客観や客観視も出来ないことには、それこそ、社会や集団生活の難易度は上がります。
そういう部分が成長過程で、少なからず発達する、学ぶ、自分で伸ばすと様々に枝分かれもするし、客観が扱えるからこそ外部に注意も向けば、感情のコントロールも行うようになるんですよ。
そして、それが大人になるという部分の側面ですし、出来ないようなら発達障害、と言う症状にも繋がりかねない。
それが全て、ではないわけですが。
流石にそこには、病院での診察、医師の診断や判断という、専門の方の力が必要になります。
うん。
自由にしろ、権利にしろ、全然良いんですよ。
でも、そこには自分とか自分と同じしかいないようだと、必ずどこかでミスもすれば、極端になってワクチンでの騒ぎのように会場を襲うという、愚かしい行動にでてしまいもする。
そして、そういう部分には「鵜呑み」という悪さも見え隠れしてます。
知ったからには、調べて掘り下げて、と意識的にやらないようだと、程度はどうあれ、伸びもしなければ成長もしない。
学業や運動と同じく、感受性だって、伸ばすかどうか?が自分にかかっている。
というか、敏感とか、繊細とかいうなら、客観や客観視は当たり前レベルだと。
個人としては、そう思います。
更に言えば。
主観が消えてしまうほどに客観の部分が見えるので。
自分を犠牲にし過ぎ、ストイックだ。これを言われるんですよ。
主観と客観の話からみえるもの
声高に言えませんが。まずは、世界情勢です。
客観からの立場に立てば、どちら側に立つか?
そして、主観だとどちら側か?
こういう部分も、そういう繋がりが無くもない。
また、そういう部分を無しにしても、独裁に対して異を唱えられがち。と言う部分も同じくなのでは?
そう思います。
また、違った観点から言うと。
客観を扱えるようなら、判断材料でもあると同時に”学習教材”と置き換えれる程に。自分が見て、知って、学んで、ほか色々。
学べる物って多くなります。
そうして見ていくと、色々気づく、感じ取ると言う部分では、単純には感受性だけでもない、と言えなくもない。
色々気付いてても、周囲や他者に注意が向かない様なら、客観なんて扱えない。
客観が扱えなければ、周囲や他者に注意が欠けもすれば、それ故に気づけていない、気付いてる”つもり”なだけ。
こういう置き換え方も出来てしまう。
言葉も情報も受け取り方次第、扱い方次第。それこそ、道具と同じです。
その、道具という部分に気づけていない。
気づけてないから、扱えない。
扱えないからこそ、自分、だけになってしまう。
掘り下げれる=繋げられる。
本当にそうあれば、主観だ客観だも見えてるはずだと、思いますのよ?
あとがき
今回は、客観とか、客観視とか、そういう部分に触れましたが。
それ程に気づくからこそ見えてしまう。と言う部分には、間違いなく客観というものが挟まってます。
自分は気付けないのに、他者が先んじて「よく気づくよね」と。
そしてそれ故に、面倒見が良い、真面目過ぎ、人が良すぎと繋がっていくわけです。
個人としては、自分だからこその普通をやってるだけ、なのですが。
こういう部分が、違うだ、おかしいだ、なんだかんだと。色々有ったわけですよ。
また、先日の通院で「客観視が強い」と言われたので、自分を振り返ったわけですが。
そういう気づくだ何だの部分には、気づくからこその客観があるし、それをもって自分の発言、意見とするので、主観と客観が同時進行みたいな部分はやっぱりあります。
だからこそ、主観としては「自分の在り方」であっても、他者からは主観がないように受け取られてしまい「自分を犠牲にし過ぎ=周囲に配慮しすぎ」にもなる。
でも、ちゃんと自分で判断とか選択してますからね。
なので、主として自分の意見や感情という、主観や主体がないわけでもない。
というか、誰しも自分で判断、選択してるからこその、意見や発言しか無いと思います。
「周りに言われたから」、「指示されたから」と周囲の責任にしようにも、そういう行動をするという判断は”自分自身にしか出来ません”。
とはいえ、そこには環境や状況、事の流れ、指示の出し方など、他の要因も合わさるので、上の責任=親、教師、上司となってしまうだけ。
多くを犠牲にするより、単独を犠牲にした方が効率がいいからそうあるだけで、自分に一切の責任がないわけでもないし、繰り返すようだと逆に自身が信頼を失うことにもなるわけです。
うん。
客観=感情からも離れる=冷静さを維持する。
そういう、感情のコントロール、衝動性の制御の効果もあると思います。
何事も、過ぎたるは及ばざるが如し。それ故に抑えすぎも悪いのですが、抑えなさ過ぎるのも、よろしくない。
そう思います。