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サムライジャパンだ言う割に

ため息がでて致し方なし。

現状の日本は、黒船来航に限らず。

宗教や鉄砲の伝来の裏側には、少なからず植民という影の部分が付きまとうのは一目瞭然。

島国であるという立地上、大きく侵略を受けることがなかっただけで。

それでも、世界大戦による敗北という部分では、少なからずのものはあったのは否めないところでもあるわけです。

うん。

逆に、それでも単一国家として残ったのは、近代化という部分で、様々に血で血を洗う内紛があったとはいえ。

国家というものを、それぞれが考え出したという先人たちが居てくれたからこそ。

それ故に、個人としては幕末という時代には、不思議と思いを馳せてしまうのですが。

どうしてこうなった・・・。


現状を踏まえても

情報が様々に錯綜してますし、こういうときには陰謀論なども出てしまうのは、良い悪い問わずある意味当然とも言える流れ。

ですが、それでも”どうしても見えない部分”というのは付きまとうものです。

力技で抑え込むのではなく、人の真意を探るというのは、それ程に難しいですし、言葉だけならなんとでも言えてしまう。

その、言葉だけでも、という部分では、

「言うは易く行うは難し」

口で言うのは簡単だけれども、行動として示すのは難しい。

そこが、「百聞は一見にしかず」ということわざにもかかってくるわけです。

個人的にはその様に思いますし、感じてます。

また、個人としてはHSPという言葉について、あれこれ意見を上げてますが、それでも難しさというものは痛感してますし、それを動画という形にした所で、所詮は動画で主張してるだけ=「言うは易く」でしかない、と。

それでも、出来ることは無いか?と考えた上での行動。

記事を書くという行動ではあるものの。

それは、書いている自分自身の言い分に過ぎないのだ。それ故に、言い分=言うは易くにしかならないのだ、と。

主張をすれば必ず伝わる。

意見をすれば理解してもらえる。

何をどう考えると、自分たちの主張は正しいという態度を取れてしまうのか?

正直、現状での問題にふれるだけでなく、汲み取ったものから意見を投げた所に、こういう個人なのでね。

「姑息な真似してるんじゃありません」

にしかならない行動をとるだけでなく、上から目線になれてしまうのか。

正直、情報化社会にしろ、ネットにしろ、いささか人間には過ぎた代物ではなかろうか?

などと、考えてしまうのです。


正々堂々、という言葉

おそらく、真面目すぎと言われるんだろうなぁ。

こういう事を言おうとすると、過去の経験から良くも悪くも、

「そんなだからお前は真面目だと言われるんだ(笑)」

という記憶も蘇るわけです。

と は い え。

こういう部分が日本語の難しさであると同時に、面白さや楽しさに繋がる部分でも有り、言語化という部分が若干あらぬ方に向いてる身としては、

「言葉も使いようなのである」

という実感と共に、喜怒哀楽様々なものを感じてしまいます。

うん。

正々堂々

正直、個人としては幕末が印象強いというだけでなく、どうしても深いところから不思議と惹かれてしまうので、ね。

「ああ、先人たちにどのようにして顔向けが出来たものだろうか。」

とか、思ってしまうんですよ。自分の言動だけでなく、他者の言動を見てても、ね。

別に思いを馳せるというのは、綺麗事ばかりではないです。

あの時代にも、様々な思惑がひしめき合い、方や策であっても、方や姑息と食い違いやズレの部分からも、恨みつらみも生まれただろうし、刀を用いて、切った切られたの結果から、己の信ずるものが正しいのだと。

他者の命を奪うことで、自身の正しさとしてた人も居るでしょう。

それが拡大するのが、内戦、紛争、戦争というものだと思います。

うん。

それ故に、現状だと、ね。

日本人ならば武士道精神というものを云々。

こんな事を考えてしまうんですよ。

士道不覚悟という言葉もありますし、失敗や負けの責任を取らされるが故の切腹という事もあったわけです。

都合よくサムライだなんだ言うだけでなく、それを良しとしまってるなら、そのくらいの覚悟が必要なのでは?と。

だって、サムライっていうとカッコいいから!それに日本らしいし!

だけだと、ホントこう、顔向けできませんのよ?

侍である以上、在り方どうこうだけでなく、自分自身としての責任や身の振りについて、時には己から進んで命を断つことで示す。

その様だけでなく、忠や義、心意気という言葉からすらも。

時を経た現代でも通じるものがある。それ故に侍は日本のイメージとして、今でも扱われるだけでなく、好まれもする。

そうあるのでは無いでしょうかね。


少し悩み始めたこと

ただただ、時勢に対してはどうしても逆に流れてしまう。

そうある個人の思いの丈をぶちまけるだけ。

そういう、結構意味のない物になりそうなのですが、流石にこう、ね。

実際に経験した曾祖母からの話ではなく、巻き込まれなくても情勢としてそういう経験をしたからこその、思いというか。

そういうのを表に出したくなってます。とはいえ、おそらく一時的でしょう。

でも、結構、ね。感じてるんですよ。

なんかこう、適当に付け焼き刃で言葉を使うだけで、言えばいいという、言うばかりというだけでなく、言った人自身すらも、自分の本質に迫れてないんじゃない?というのは。

疑問や違和感ほか、モヤモヤを感じるんですよ。

それほどに、無責任や自分勝手が横行しすぎてる。

吐いた唾は呑めぬ

吐き捨てるのは、何も唾だけではないです。言葉を吐き捨てるという表現もありますし、それ故に日本特有としての、

言うからには、ちゃんと行動で示せるんでしょうね?

という、言われもしてしまうものです。言うだけではダメ。

言うは易く行うは難し。行動として示してみなさいな、と。

うん。

しかも、言うにしても姑息というのが多いと言うか

動画や記事、内容へのコメント。

それに乗るかのように、主の内容どころか、コメントすらも読めない意を汲めないまま、自分の主張の場にしてしまうというのは、どうなんだよ・・・と思います。

自分自身が表に立って主張する=こういう記事や、動画を作ってそれを訴えるだけでなく。違う意見を見たとしても、それに意見をするよりも、

自分自身からの主張という行動に転化する。

そういう事ができる人が、明らかに減ってると思いますし、ネットというツールの登場と共に、顕著になってきてると感じてます。

自分の言いたいをするばかりで、相手は何故そういう事を言い返してきてるのか?を汲めない・・・。

なんかこう、発達障害とコミュミケーションの難が取り沙汰されてはいましたが、そういう部分から、

「自分はちゃんと相手の意を汲んで、コミュミケーションを取れてるか?」

自身がその症状を持つ持たない以上に、自分自身は1人の人間として、自分だけでなく相手を尊重するコミュミケーションが取れているのか?、と。

コミュニケーション、という言葉からは、何がどうあれ自分自身も行うわけですから、何はどうあれ失敗する人がいる=自分も失敗してるのかも知れない?というね。

自分の見つめ直しに使った人って、どれだけいるでしょう。

ホントこう、優位性とか優位に立つというのを無意識にやってしまってる、とも言えなくもない。

自分はその症状と診断されてないから、自分は出来てる問題ない。と、するばかりか、出来てる=周囲や相手が気を遣ってくれてるということには意識が行かない。

そりゃそうです。自分が相手に気を遣ってないのですから。

言いたいことを言う自由を行使してるだけ。

それを行使したがゆえに発生する、影響なんて一切考えていない。

だから、自分の優位性の確保の為に、自由という言葉を用いてしまう。

うん。

いやはや。

自由も差別も誹謗中傷も。

自分の主張のため、自分たちという所属する集団のため。

なので、相手の自由には意識や注意が向かない。

注意が欠陥してるわ、衝動的に言葉を放つわ、無駄に言い返そうと行動を起こして落ち着くがみえないやら。

って、あれ?これは・・・?になるんですよね。

ほんと、ね?

自分さえ良ければいいというのは、因果応報を招くし、自業自得から墓穴すらも掘る。

灯台下暗し。

光を飛ばした先=他者はよく見えるのに、自分の足元全然見えてない。

やれやれですのよ。


あとがき

はふぅ。

単にIQの結果どうこう以前に、学生時代での国語のテストでは、あれ?回答のほうが間違ってるのでは?と。

教師に質問して、気づかせただけでなく、一緒に文章を読んで問題を説いていくとあら不思議。

「正解不正解は別としても、確かに言い分の筋は通る」

正解がほしいのではなく、あくまで個人として問題を読みながら、設問に答えようとすると、読み解いたら、ここじゃないですか?という疑問を晴らしたかっただけ。

その行動の結果として、あらあらまぁまぁ、ということも経験してたりします。

それでも、ね。

言葉の扱い方はうまい方ではないんですよ。丁寧語だ、謙譲語だ、面倒ですわよおおおお!という感じで、文章の結びがおろそかになってますし。

他にも、知らなかったが故に、誤用してて恥ずかしい!という経験の方が寧ろ多い方でもあります。

なので、個人としての主張レベルで記事は書いても、自叙伝だなんだという書籍にして売るなんてのは、おこがましい、まだまだ未熟、自身の精進が足りない。

戒めてしまいます。うん。

そもそも、情報って知識や経験だけでなく、精査だったり、情報源としての一次二次という難しさというのが絶対にあります。

なので、仕事として記者やライターというのが成り立ちもすれば、様々な情報媒体が価値あるものとして、取引もされる。

世の中、そういうものなんですよ。

なので、ただただ言うにしても、結構恥ずかしい思いをしかねないんですね。

かといって、それで意見を言うのはダメということもないですし、個人の自由の範囲であればいくらでもOKということにもなります。

うん。

ただ、ね。

自由とは言え、相手への配慮を忘れてしまってる人は多いだけでなく、増え続ける一方だと思います。

それ故に、サムライジャパンとか聞くと、すっごくこう、ね。

色々感じてしまうし、モヤモヤが否めないどころか、過去のいろいろすらも持ち上げられてしまう。

なんでかこう、不思議と、ね。

申し訳無さという感情も湧きます。うん。

こういう事を書いたのも、動画に対してコメントした内容に、謎の返信があるっただけでなく、こっちの意図を汲めてないどころか、読めてなよね?という状況に遭遇したから、です。

はぁー。

ため息がでるというか、なんというか。

正直、謎の返信が余りに謎すぎて、自分の主張をするばかりだし、それ故に不快かつ迷惑でしかなくて。

流石に「自由や権利という部分は、言葉の扱い方次第で相反してしまうもの」というのは、言われなくとも気づけないようじゃダメじゃないの?と。

思ったので、こういう記事にしてみたわけだったりします。

その、ね?いくら自由っても、子供ではないわけですし、子供だとしても年齢に伴う成長という部分からは、幼子に比べると、という話にもなってしまいます。

というかだなぁ。

面倒くさいんですよ。こういう、自分の言いたいだけを叶えようとする人って。

色んなネガティブさを無自覚で出しもすれば、指摘されても、配慮や気遣いという前提がないので、反省すらしない。

もう20年近くネット使ってますが、必ず付きまとうものなんですよ。

そういう人が、ゴロゴロその辺に居るので、感受性高いともうストレス半端なくて生きづらいなんて言ってる暇ないです。

自分で感情制御しなきゃいけないし、それでも、諌める時には諌めないと、ね。

自分がされてると気づかないけど、他者がしてるものでは、あ!!という形で、コミュニケーションに対する気づきを促せるという部分もあるんですよ。

なので、言われなくても「人の振り見て我が振り直せ」が出来る人は、そうやって学んで成長していく、と。

感情制御もしながら、そういう他者への配慮だなんだ、それのさじ加減やバランスとか、すっごい勢いで頭の中駆け巡ってます。

諌めようにも、言葉が過ぎると、自分が不利にもなりますしね。

色々感じ取れて、色々来づけるというのは、そうやって少なからず先の事を自然と考えるし、そこから発生する影響からの配慮や考慮もします。

なので、大変なんですよ。生きづらいではなく。

うん。

はぁ。

ほんとこう、どうしてこうなった?という部分には、サムライジャパンだ言う割に、侍とはなんぞや?が抜け落ちてるという所にも、影がみえるんですよね。

それでは。

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