経験から語ってみる13(幼い頃の話
個人的に、感受性だなんだの話をするに当たり、
幼い頃から変わってない
という風に大雑把に書いてますが、これもね、色々あり過ぎて良い記憶がないだけでなく、幼稚園児の時点でにわかに信じがたいという話が山ほどあります。
なので、誰かに話そうにも、私の事を一番見ていた母にしか通用しない話でもあって。
こうして感受性だなんだと話す機会が出来るまでは、有りえない、そんなのおかしいと言う反応ばかりで無かった事にされがちだったんですよね。
ほんとこう、話を聞く=言葉を耳に入れてるだけという感じで。相手が何故そんな話をしてるのか?より、自分の経験や価値観、性格からそんなはずはない、が多い事多い事だったんですよ。
その辺を、少しね。出してみようと思います。
ホントいやらしい子
えっちなのはいけないと思います!という意味でのいやらしいではなく。
相手をしてると、良くも悪くも察しが良い、よく見てる気づいてる。でも、子供だからって、流石にねぇ...という感じでのいやらしいです。
うん。イチイチ言わなくても、ね。冒頭から合わせて読めばそんなこと分かっとるわーい!って感じなのですが。
さて、本題の方ですが、カウンセリングで言われた”現実を深い所で見つめすぎてる”というのも、幼稚園に通いだす頃から変わらなかったんですよ。
ただ、問題はありました。
まぁ、大人たちが舌を巻くという状態になってたんじゃないですかね。普段大人しいやら、言う事をよく聞く手のかからない子なのに、何でこんなにって程に、
道理が通らない事は、いくら怒ってようが、叱ってようが「なんで?」
と、いつもなら泣く形で引き下がるのに、いざとなるとしつこく説明を求めるという真逆な姿も見せてたんですよ。
教える側になれば、教える側は自分たちがそれを出来なくて良いのか?という感じですかね。優しくする、仲良くするなんて教えたもんだから、それに対して、感情的になって怒をぶつける=怒るはやって良い事なのか?という感じで、自分に向けられた物より、周囲の同級生に向けられたものの方に反応しやすかったです。
しかも、そういう状況の方がとにかくしつこかったです(苦笑)
なので、思い出すだけでも、あーあー...って感じで苦笑いもしますし、相手にしたくないタイプの子供だなぁ、とか自分でいってしまうんですよ。
ホント、いやらしい子...。
記憶についての諸問題
という事で。記憶についてって、どういうことだってばよって感じですが。
親でも驚くほどに、自分の幼い頃を記憶してる、また辛い、苦しいというエピソードの方が焼き付くように記憶に残ってるといわんばかりに、そんな話覚えてなくていいのにを、覚えてしまってる。
まぁ、いわゆる記憶力の差という部分でも、学力に限らずそういう自身の経験と記憶で残ってるタイプだったので、何で覚えてるの?も割と日常の話でした。
ただ、母以外にそういう話をすると、どうしても付きまとってくるのが、おかしいだ、変だ、ありえないだという他者の反応です。
そんな年齢の頃の記憶は自分は残ってない。
なのに、お前が残ってるというのはおかしい。
おかしすぎて有りえない。記憶の捏造だ。
直接言われたわけではないですが、相手の反応=言葉の選び方、扱い方からそうとしか聞こえないんですよ。
いくらうまく繕って言ってたとしても、論旨とか、要点とかいう国語の授業やテストと同じく、一番い言いたい所ってそこよね?みたいにすっぱ抜くというか。
まぁ、その、ね。
ウェクスラー式成人知能検査をやった時も、言葉に対しての受け取り、扱い方も評価されたくらいですし、今更ながら自分に対してもなるど、納得するというか。
人の頭の中なんて覗けようもない部分なのに、なんでそんなに記憶の捏造だなんて一方的に言えるのさ?だったんですけどね。
言葉の扱い方や、やりとりのし方というか、論法というか。そういう部分でも差が見え隠れするんですよね。
未だに割と日常というか。私の方の説明は相手に伝わってるのに、相手のは聞き返さないと分からない部分が多い=言葉が不足してる、言いたいことをちゃんと言えてない=論点が抑えられてない、という事は多いです。
また、逆も然りで、相手の言いたいことは伝わってるのに、私の方のは伝わってないという事も多く。
そこには、感情が動きとその幅があるんですよね。
大人なのに、子供にムキになりすぎなんですよ。とか、子供の頃から隠して思ってたもんです。
と、こうやって書いてみると、幼い頃から変わらないというのも、何となく伝わるかなぁ?と思います。たぶん。
だからこそ、言わずに黙る
正しいだ、間違いだ、なんだかんだと世の中うるさいというか、少しは我慢して留まって、冷静に様子を観察した方が良いんじゃないの?という感じなので、
言わずに黙るんです。割とマジで。
無駄に感情論が飛び交う=感情的になり過ぎな人が多い過ぎ問題ですよ。マジで。
いやー”大人になるってどういう事なんだい?”と嫌でも言いそうになりますが、基本的には言わずに黙ります。今回は狙いがあって記事にしてるので、別です。
だってその、ただでさえ感情論が飛び交う=感情的になりやすい、直情的とも言えるほどで、子供と比較すると嫌がられますが大差ないというか、なんというか。子供になりきれない大人たち、ではないですが、上辺ばかりで大人になろうとしてて、中身が伴って...おおっとお口チャック。
そんな状態なのでね、いくら現実を深い所で見つめてるからと、一般的に言えば正しい事なんてをを出したところで、自ら火に油を注ぐ事になるんですよね。ほんともう、正しさというか、自分が正しいに固執し過ぎというか。
こういう風にいうとね。お前の方が正しいというのか?何様だ!って言われるのですが、これって冷静さが欠けてる状態なんですね。そういう事を言ってしまう時点で。
それに、対を成すエピソードとして、
言ってる事は正しいけど、正論が過ぎるし、感情が無い機械みたいで怖い
と言われた事があるエピソードを出す事で、暗に証明とか説明とかしてるという感じです。
これについては、相談に乗ってたけど、自己愛だ、甘えだが過ぎてて、兎に角自分に優しくしろ、心配しろ、可愛がれと言わんばかりに自分の辛さばかり、自分の苦しさばかり、それで周囲が不快になるのは自分を理解してない周囲が悪いだけ。そんな感じで押し問答になりすぎたので、ブチ切れたという話だったりします。
そういう意味ではね。
HSPという概念に、生きづらいって勝手にくっ付けたあげく、それを利用して心理学としての概念が本質よりも、上辺だけの話題性「繊細で敏感、だから生きづらい」に飛びつくなんて真似するから...という、個人の言い分にも繋がる、類似するという、ね。
そういう意味合いを、敢えて表に出さず隠してやってんだよ(笑)
という、そんな感じなんです。いやらしい子が成長したら、本当に嫌らしい人になってしまうんです。だから、子供の頃から変わらないってね。自虐ばかりでもなく、皮肉とかも込めてるんですよね。
まぁ、ね。
気持ちは分からなくない。でも仏の顔も三度まで。
最近はそういう風にも言いますけど、自分は1回しか触れてないとか、大して言ってないは通用しないです。上辺だけの話題性に飛びついた時点でアウト。そんなの、感受性が普通にある程度でも回避できる人は回避できるんですよ。
そういうね。周囲とか、他者とか、現実をちゃんと見据えないから、しっぺ返しはいつかある。
だからこそ、因果応報なんて言葉が出来ただけでなく、今でも言われる使われるっていう話なんですよね。
とにかくおかしい
流石に書ききれないので、自分の記憶や経験の中での話が多いのですが、ほんとにおかしい、って感じなんですね。自分でも悩んだり、疑問に思ったりしますし。寧ろ周囲と比較するので、逆に自分がこうなるのは何故だ?と自問自答もするほどに、おかしいんです。
そういう意味では、幼い頃から、ホント受容がされねーのよ?って感じで、兎に角主観で嫌でも他者から言われるし、やられることなんですよね。
受容するだなんだの部分ですが。
自分の感覚であれば、何故相手がそういう事を言うのか?という違和感がまず最初にきます。だからこそ、相手を受け止めようとして話を聞く。受容と言わずとも、話を聞くという事も私からすれば、相手を受け止めるという感じです。
そこに感受性の部分が絡んでくるのか、受け止める要素も多くなるというか、アンテナに引っかかってキャッチするというか。
そうある様子が結果として、人が良いとか、真面目とか、相談上手となるだけでしかなく、自分としては幼い頃から変わらずやってる事の一部です。個人の尺度という言葉を含めると、誰しもがやってる一般的とか、普通とか、当たり前という部分の話しなんですよ。
ただ、そこが感受性ゆえなのか何なのかどうしても違ってしまう、という部分から周囲は好き勝手言ってくれる=言葉を受け止めてない、何で私がそう話すのか考えてない、考えようともしない。それだけでなく、無意識とか無自覚に幼い頃に教えられた単純明快な優しさや、仲良くするとかが引っかかるのか、感情的になって反論して、抑え込もうとしてくるんですよ。
幼い頃であれば大人だけだったのが、成長に合わせてクラスメイトや同級生、先輩、後輩や、社会人になってからは年齢問わず同僚から、兎に角おまえのそれは...と言われ続ける。
そりゃ、言われる側としては、頭捻って当然です。自分の言い分だけど。
性格や個人差、多様性なんかも、単語なら共通認識がとれるんですよ。
でも、そうやって自分の経験の話をすると、何かが揺らいでしまうのか、私が過ぎるという事にして、見ないようにしようとする。
感受性が絡んでるというのも、こうして色々知って語るようにはなったものの、全部受け入れ切れないんですよ。自分でもこれ以上は...と周囲との軋轢を懸念して受け入れ切れなくなる、という部分が把握できるほどです。
そして、こうやって自分すらも掘り下げてしまうから、嫌でも先に進んでしまう。結果として、自分の親以上に年齢が離れた人からすら、大人だなぁ...って反応もされて、え?って困惑をした事もある。
そういう意味では、される評価って、上辺だけしか見てもらえてないって感じなんですよね。そもそも自分としては普通なのが、評価する相手次第では相当に誇張されてるとしか思えない、感じられないというくらいで。
だから、評価なんか、受け入れられる、わけがない。
メンタル病んで社会から落ちる前は、某大手企業で私の事を知ってる人であれば、
何でその年齢で、そこまで出来るの?責任ある立場を任せても大丈夫な人になるの?
いやいやいやいやいや......。普段から、何をどう見て生活してればそんなに上辺だけしか見れない人になるんですか?っていうね。天才でなかろうが、何かしらに特化してる人って、日常にも居ると思うんですよ。
なんで、そうなっちゃうの?
そして、これは別に私がどうとか、持ってる感受性の話が、ではなく、
普段から違う他者の苦労や経験を、自分と違うからおかしいって否定しあってるから、そうなってしまうんじゃない?
っていう、ね。口うるさい物言いをしてしまうんですよ。
そうやって自分でハッキリと口うるさいと言えるくらいなので、肝心な部分でも問題ありと判断出来れば、口は禍の元と言わんばかりに黙る事が多いです。
とまぁ、そんな感じのお話でした。
そうある自身だからこそ
自分の事だし、幼い頃からそういう経験が多いし、それが正しいとか間違いとか言う話ではなく、単純に経験してるだけという話でね。
だから、自信をもって自分の方から、”いや、私はこうなのですが?”って説明したりしてるだけでもあります。
ただ、それを聞いた途端、おかしいだ、変だ、そんなはずがないだ、記憶の捏造だなんてのは、そもそも人間誰しもそういう事は起こりうるのに何でそんなに鬼の首を取ったように感情的になるのか?という経験も凄く多いです。
人の巡り合わせなのか、環境のせいなのか。
でも、そう考えてみても、どうしても無理になる部分があるので、そこに感受性が高いという謂れを当てはめると、途端に腑に落ちなくもない。
うーん。まぁ、ねぇ。多分とか、恐らく程度で抑えようとする反面、いい加減認めろと別の方向からも、ね。
ホントこう、幼稚園だ、小学校の低学年だでも分かりやすく教えられるような、優しくする、思いやる、仲良くする、というのをどう受け取ったんですか?って嫌でも言いたくもなります。でも、言うと火に油だから黙る。
そういう普段言わないなのですが、敢えて記事化する為に言及してる、そんな感じです。
なので、根底はそういう人なんですよ。真面目だとか、優しいとか、気を遣うとかではなく、面倒を避けるという部分から、善悪や正誤を無駄に問わず、敢えて一歩引いてるだけに過ぎないんですね。
謙虚ではなく、側面って見方です。人間自体も多面的=色々な要素を持ってるだけだから、そういう一面もあるという見方をする、と。
現実を見ると、人間どうしても自分には甘いものだ、というのが見えてしまいますし、そもそもそれ以上に私だってそうあるんですよ。間違いなく自分に甘い部分はあります。
ただ、そこの匙加減の違いから、自分を含めた現実や環境に対しての対処をしてるだけで、その結果を勝手に周囲が解釈して好き勝手言ってるだけ、だと思います。
人間誰しも違うというのは、自分が出来ない事をやる人、やれる人が居るという話で、それは必ずしも成功者ばかりではない、という至極当たり前の話をしてるんですよね。
そして、そこには感受性が絡んでるのは間違いないんですよ。
個人的には、ネガティブもポジティブも陰陽五行説の陰と陽と同じく、相互関係なので、反転もし得ると考えてる方です。
実際そういう感じ取りって、日常の中ではゴロゴロありますし。
上辺だけのポジティブさ、とか本当にそうで。
あの人に負けたくない、というのも、七つの大罪にある嫉妬や強欲が発端だと全然ポジティブじゃなくて、ネガティブの塊なんですよね。
なので、頑張ってるアピールって言ったら悪いかも知れないですが、大勢の人と違った反応してしまい、それこそ口を噤んでおかないと、途端に多数派だからという理由だけでフルボッコです。そこには正しさなんてありません。
異なこと、異なもの、異な人だから。
それだけの理由と言わんばかりに、大勢だからを大義名分にするという感じで人数だけで善悪を錯覚して叩け、でしかないから言わずに黙る、昼行灯の様に振舞うんですよ。
正に口は禍の元なんですね。
掘り下げるってのは、そうやって自分自身を律するとか戒める様な働きもあるし、だからこそ気づけない人が多い中で、気づいてしまうというという部分がでてしまう事にもなりうるというか、ね。
そして、こういう部分ってキリがないというか、何が正しいか?というのは着地点がぼやけてしまうんですね。人それぞれ見方が違いますし、そこに経験も絡むとさらに霞んでしまうようなもので。
なので、色んな意味を含めてHSPって思いのほか扱いは難しい、という話もする、という感じです。
ほんとこう、自分の弱さ、甘さにたいしてだけ敏感でしかないんじゃないの?っていうね。
それは、言い換えれば自分勝手とか、我儘って、痛く刺されてしまいます。
それだけでなく、家族だろうが友人だろうが、HSPって言葉がある、そして自分を当てはめるだけでは、周囲は納得しないし、理解されなくて当たり前。
自分では見えない自分を、普段から見ているのが、そういう人達です。
理解されないじゃなくて、ちゃんと説明して理解を勝ち取るように動かなきゃダメって話なんですよ。
その為にも、周りをちゃんと見据えましょう、ね。
と、いつも以上にグッサリやってしまうのでした。
あとがき
まぁその、一理あるというのはわかるのですが。扱いのせいもあるので、ネガティブ、ポジティブに焦点を当てすぎると、その他の部分は見えづらくなるんじゃないかなぁ?
と、個人としては最近色々考えてしまってます。
兎に角人の数だけ感受性がある、星の数だけ星の形態や輝きもあるという感じで、一括りにしようとした途端、肝心な所の方が外に追いやられてしまいそう。
嫌でも幼い頃から、そう言うのも見て聞いてだけでなく、自分に向けられる事で経験もしてきてるので、余計なお世話という感じで、危ぶんだり、心配したりとするんですよね。
とまぁ、案ずるより産むがやすし、かもしれないのですが。
ネガティブ、ポジティブも、ホントこう陰と陽、朝と昼というか、反転して伝わりますし、それが言葉から視認出来るみたいな状態でもあるので、すっごく自分が嫌になったり、気持ち悪くなる事もあります。
如何せん上辺とか見せかけで他者から提供され過ぎたせいか、変なところ、気付かなくていい所に気付くってのが磨かれたような、そうでもないような。
屁理屈だなんだ言われますけど、いやもうあんた感情的になってますやん?
それが証明してるんですよ...ってね。言えないですよ、ほんともう嫌らしいヤツだ。
キレてないですよ、はネタだから良いし、それを自身に取り込んでネタとして笑いを取ろうとして扱えるならいいです。でも、キレてるのを隠そうとしたところで、色んな部分から、些細な変化すらも、感じとってしまうので気づいちゃうんですよね。
お前流石に気づき過ぎっていうか、そこ気づいたら可哀想だろw
そんな事言われても、自然とかそういうレベルなんだし、そこから感情が伝わると、こっちも抑えてるけど影響されてて気持ち悪いんじゃー!
ふぅ。
ということで、今回はこんな感じで終了となりますわ~。