それってどんな時代?
良くも悪くも色々持ってるからなのか。
そんな時代だから。
そんな時代は終わったから。
と、良く投げかけられるのですが、総じて
それってどんな時代?
と返すと、途端に説明出来なくなってしまうという人も多いんですよね。
また、こういう人全てでは無いですが、話を聞いていないという事も多いです。
そういう言い回しが取れそうなところだけを拾ってるだけで、相手が何故そう言う話をしてるのか?とか、どんな流れの話になってるのか?とか、話として肝心な所が抜けてる事も多く。
まぁ、色んな人を見かけてきたので、そういう言葉を使ってしまう人について、触れてみたいかなぁ、と思います。
話を聞いてないタイプ
例えば、性別のについての話になった時に、あくまで個人の経験として、過去にこういう経験があったよ、という話をするわけですが、そういう時に言われやすいです。
今はもうそんな時代じゃないから、と。
いやいやいやいや。
今がどんな時代なのか?を話してるわけでも無く。
あくまで話の流れで、性別についての話になり、LGBTだなんだになり、という流れがあった上で、個人の経験がこうあった、を話しただけであって...。
その過去の経験についても辛かったとはいえ、常に向き合いながらなので、恨みつらみとかはないんですよね。
だから、時代が変わったとか、変わってないとかは関係なかったりします。
それなのにまぁ、話を聞いてないというか、あくまで過去がそうあったとはなしただけなのに、時代が変わったとか、今はそんな時代じゃないとか言う人がね。居るんですよ。
まぁ、こういうタイプの場合もう一つ別な要素を持つという複合タイプ?な人も居ます。
決めつけてくる人
あくまで、話の流れがあってそれに沿うように話しただけ。
そうであっても、過去の経験を話した途端に、過去に縛られてるからだ!と、何をどう聞けばそういう事言えるんです?って人も居ます。
話の全体ではなく、過去の話をしたというだけで、引きずってるみたいに決めつけもする。
その上で、そういう時代は終わったとか、時代がどうだと言われる事もあります。
うん、OKわかった。
何がどうかわったの?というと、結局実情を知らない話になるんですよね。
個人としてはまぁ、昭和生まれだし、そういうのと長く付き合い向き合いしたから知ってるというのは確かにあります。
とはいえ、自分がそうあるから、自分で興味をもって、知ろう、調べようとして得た物が土台にあるんですよ、個人として。
そこに、時代がどうこういう為に、決めつけられたり、都合の良い部分だけを取りあげられて話されても...
甚だ迷惑である。
という事は多いです。
で、これも不思議な事に、時代が変わったという人って、
そういう事にしたいと言わんばかりに、しつこく認めさせようとする
って人も多いんですよね。
なんかこう、そういう事にして、自分は分かってあげられてる、理解してあげられてるとでも言いたいの?とか、ツッコミ入れたくなるくらいにあります。
まぁ、何にしてもですね。
とりあえず、相手を知りましょうよ。
彼を知り己を知れば百戦して殆うからず。
相手を知ろうとしないまま、時代だけで片付けようというのが、そもそも傲りではなくて?と思います。
うん。
相手を見る、知るということ
時代がどうあろうが、個人個人の土台にあるもの。
育った環境、生育過程、性格や価値観、基準、感受性、考え方他色々違うものというだけでなく、どの時代ににも色んな物を持ってる人が居るというのがまず大前提ですよ?っと。
そこに、時代という一言で相手を否定しかねない物言いをするというのは、浅はかではなかろうかね?と個人として思います。
何がどうあれ、感受性としての感じ方すらおかしくて、普通に無意識にやってる行動すら、真面目すぎと。
上辺だけ見てとか、そういう言葉や概念があるからとか、そういう相手都合の理由で、勝手に判断されとやかく言われるのが、
未だ変わりません(笑)
物心ついた頃からそう、昭和の頃からそう、あの頃ですらおかしいと言われてた身なので、今の時代がどうだいわれても、ね。
そもそも、その時代って言い分は、言ってる側の主観ばかりで、自分としての立場しか入ってない=相手を見てない、話しも聞いてない、知ろうともしてない、という所の表れというか。
時代がどうあれ、そういう価値観を持った人が相手なら、そういう人なんだという事で”個人を見る必要が有る”のでは?
主観からの意見って衝突を生みかねないんですよ。自分しか見えて無くて、相手がどうしてそうあるのか?それは何故なのか?という、他者との向き合いをしてないだけなので。
主観ばかりな人って、自分が!自分は!って自分を前に押し出してくるばかりで、その自分が言ってる事って相手に伝えたいんじゃないの?っていう、伝えようとしてるのに、伝える側ガン無視してる矛盾さってのがある事もしばしばです。
自分の言い分を聞き入れてもらいたいだけで、何を言おうとしてるのか?を伝えようとしてないんですよね。
聞き入れるのと、伝わるというのは違う物ですから。
そして、そうある様を観察してると、在る事に気が付きます。
形骸化した自由
形骸化=中身が無い、枠組みだけとか、骨組みだけとか、そんな意味なのですが。
要は自由って言葉を間違った解釈してて、好き勝手とか我儘すらも、自由として扱ってる。
そういう、自由の形骸化があろうかな、と思います。
寧ろ時代がどうこう言われると、昭和の頃より、そういう自由の前面押しが増えてるので、今の時代って形骸化した自由が横行する時代だとも言えるのでは?というくらい。あくまで個人的に。
そして、そうなり出してから言われ始めたのが、ストレス社会です。
主観ばかりで、相手を知らずに決めつけて、〇〇だからと個人を見るより枠になりそうな言葉、例えば精神疾患や、引きこもり、うつ、他個人個人が見せる症状が違うので、人それぞれと向き合って医師が相手してるのに、一般人が付け焼刃の知識で決めつけでごちゃごちゃいう。
寧ろそういう時代ですよ。
価値観が古かろうが、何を抱えてようが、個人として、というのが人間の一番大事な部分なのに、そこを自分が見てる範囲、自分が知ってる範囲で、決めつけてたら衝突しか生まないでしょうに。
個人として、相談上手、教え上手と言われるのは、何も感受性ばかりでもなく。何はともあれ、人として、その人個人として向き合ってるという部分も重要だったりします。
なので、程度にもよりますが、かまってちゃんだろうがなんだろうが、相手もするし、それを周りからお人好しとも言われもする。
あらぬ方=かまってが過ぎてて、他人の事なんか知らない!が出すぎると、逆転してマイナスに出る杭もうちつけますよ?はしますけどね。
何がどうあれ、個人であり、人なんですよ。
その人は何故そうあるのか?
その人は何故そういう相談をするのか?
その人は何故そこが分からないと言うのか?
人として向き合おうとするからこそ、上手くいくという部分もあります。これは感受性どうこうではなく、意識です。意識。
意図とか狙いとかとも言える物です。
で、長くなりましたが。
こうやって、痛い所突いてると、
何言おうがこっちの自由だろ!
それ、自由ちゃう、自分勝手や、節子。
という感じでね、言論の自由=何を言うのも自由=自分主観が過ぎてて自分勝手になってる。
言葉を用いて、他者を決めつけるなんてのは、下手すると差別、です。言葉で相手を決めつけて物を言うわけですからね。
自由だって、上手く扱わないといけないんですよ。
こういうのも、自分だけでなく他者に向けられる物も含めると、頭が痛くなる...ってくらいに、履き違えて自分に都合が良いように扱う人が多すぎ。
そんなだから、ストレス社会になったわけで。
今はもう、そう言うのが幼い子を蝕みつつもあるくらいなので、自由だ、自由だ言う前に大人がちょっと立ち止まって、注意しないといけないんじゃないの?と思います。
あとがき
ここからは余談、ですが、ストレスが幼い子を蝕むという話は、最近痛い程痛感するんですよ。
というのも、家の近くに公園がありますが、そこに近所の保育園が散歩がてらに遊びに来たりするのですが、
楽しんでる声の中に、思いっきり吐き出そうとする時の金切り声
これが混ざってます。楽しんでるんだけど、ストレス抱えてるからか、公園で遊ぶ=大きな声を出しても問題が無い、という環境が作用して、自然と自分のうちに溜まってる物を吐き出すかのように声を出す。
そういう子が数人いるんですね。
また、そうでなくても住宅街で、新しく建てたり、中古を買う借りるして引っ越してきたお宅に小学生以下のお子さんいますけどね。
そういう中にも居ます。
自分も子供時代過ごしてますし、自分はどうあれ、弟にしろ同世代にしろ、そんな金切りを思いっきり楽しむ時に混ぜる様な子はおらず。
今まで過ごしてても、少なからずそういう子供が遊ぶ姿を見かけなかったわけでもないですし、過去を振り返ってもそういうタイプって居ませんでした。
そういう部分に無意識からのストレス発散というような要素があると、気付くし、記憶に残るんですよ。持ち前の感受性のせいか。
逆に、デパートの食材売り場とかで、お菓子だったりを思い通りに買ってくれないという状況だったりすれば、キィー!みたいな金切り声を出す姿というのは普通にいつでも少なからずは認めてて。
自分自身も抱えてる物がありますが、切ないですよ。
今は感染症で色々あるとはいえ、子供が、遊びの中で、そういう金切り声を混ぜるなんてのは、今までになかったですし。
でも、出来る事がないし、昔みたいに声で判断して、話を聞いてあげるとかできないですし。
とまぁ、寧ろ、時代の中には悪化してる部分というのは、個人として観測出来てる事象、事態です。
いつの時代も子供の為っていうけど、結局当の子供の為になる様な事ってどんな事?をしっかり考えないまま。それでいて、国や、学校や、行政への責任転嫁ばっかりやってるから、こんな事になるっていうか。
子供の為はいうけど、親としてどうか?を問われると、共働きだから時間がー疲れがー、だったでしょ?
それでも子供は親を求める。それ程に親って大事な存在なんです。
少年法どうこうするまえに、そういう親の怠慢どうにかしないと、幼少期に傷を抱えるからこそ、悪い方に転じてしまう事もあるんですよ。
子供だろうが、大人だろうが、親だろうが、どんな人だろうが。
人が人として向き合おうとせず、楽ばかりと向き合ってたら、のちの世代に苦がのしかかるんですよ。
それがもう見える程に出てる時代というのが、今じゃないですかね。
それなのに、LGBTだ、ジェンダーだ、HSPだと、都合の良い所だったり、上辺だけだったりしか取り扱わずに、上辺だけでの時代の変化しか追えないんじゃお先真っ暗ですよ。
って、なんかこう真面目になってもうたがね。
ホントこう、ね。
時代なんて言えば相当に広くなるし、今までの歴史だなんだを日本の内外追ってたら、おおよそ現状すらもそれなりに続いてる歴史の一環で、同じ事やってるわ、現代人とかどれ程?過去も現在もクソもございませんわよ?(笑)ってのが目に見えるくらいです。
もうちょっとこう、言葉すらも凶器になるんだから。
扱い方気を付けてみませんか?
こういう部分はいつの時代も変わってないのでね。時代が変わったとかいうとおへそで茶が湧きます、ハイ。