マイノリティな左利きと、鈍さの話
自分が右利きの場合、左利きとして生きる不便さを身にしみて理解することは難しい。
むしろ理解する以前に、右利きが標準化された社会で、左利きとして生きる不便さに「気づく」ことさえ難しい。
右利きとして快適に生活していることが「当たり前」だからだ。
自分と違う左利きの人が、例えば駅の改札を、利き手でない手でピッとするのはやりづらいんだ、と気づくのは難しい。
マジョリティは自分が“下駄を履いている”ことに無自覚でありがちということだ。
だからこそ、まずは自分が特権を持っているという事実にハッと目覚めなければ、当事者意識を持つことはできない。
だれしも社会的・時代的・地理的文脈から独立して個人として存在することはできない。
だれしも必ず、その人として「当たり前」に生きているというだけで、加担しているものや、享受しているものがある。他者の不便さや生きづらさを下敷きにして。
何かを変えたいと願うなら、まずは自分に問わなければならない。自分はどんな下駄を履いているか?どんな構造的な不平等に加担しているか?どんな他者の生きづらさに気づいていないか?
批判的精神はまず自然と自分に向かう。自問し、自覚してはじめて、当事者意識を獲得することができる。
自分ごとだから腹がたつ。無自覚で愚かだった過去の自分にも、今目の前で起こっていることにも。そんなの不公平だ、変わるべきだと実感する。
自分は中立で冷静でいられると感じているうちは、自己批判も当事者意識もできていないのだろう。
自分が過去に他者を傷つけたことを猛烈に後悔し、こんなことを2度と起こってはいけないと心に決めること。
過去の自分が他の誰かにされて受けた傷に向き合い、それが「傷」だったと認識すること。
目の前で語られる差別を含んだ言語に気づき、痛みを感じること。
その敏感さがなければ、何も変えることはできない。
なぜなら鈍いままの目には、変えるべき「何か」さえ、見えちゃいないのだから。