「君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる」のか?(映画『新聞記者』を観て)
※注:ネタバレあり
映画『新聞記者』を観てきました。
https://shimbunkisha.jp/
東京新聞の記者、望月衣塑子さんの著書を「原案」として作られたオリジナルストーリー、ですが、実際の事件を彷彿とさせる(というかほぼそのままの)エピソードが入っているなど、ただのフィクションではないということはしっかり伝わってきます。
ですが、ここで現実の政情と絡めて本作を語れるほど私にリテラシーがないのと、そして何より、エンタメ作品として私に刺さるポイントがあったので、そこについて書きます。
不正を暴こうとする新聞記者の吉岡エリカ(シム・ウンギョン)に協力しようとする内閣府職員・杉原(松坂桃李)は、上司である多田(田中哲司)に圧力をかけられる。「子どもが生まれたばかりだろう」「外務省に戻りたいか。それくらいの口利きはしてやれるぞ」。ただし、知っていることをすべて忘れろ、と。
家族を人質に取るように圧力をかける行為がクズだというのは議論の余地がない決定事項なので置いておいて。
「大事な人に恥じない自分でありたい」という心と「大事な人を守るためなら自分は泥まみれになってもいい」という覚悟、どちらが美しいんだろう。
軍事利用を視野に入れた大学院大学の設立に税金がつぎ込まれる。福祉が届かない国民の嘆きは顧みられることなく。もしも軍事利用が実行されれば、それによって失われる命の多さはどれほどだろう。それを今、食い止めるために自分が何かできるのならば、それを実行することが讃えられるべき勇敢な行為であることは間違いない。
しかし、社会正義を貫き通せば、産後の妻と生まれたばかりの娘が危ない目に遭うかもしれない。自分が口を噤めばそれを回避できるだろうという状況で、口を噤むという選択をするのも「家族を守るための勇敢な行為」なのではないか。
人の命は平等なのか。大勢のためになら少数が犠牲になるのはやむを得ないことなのか。自分の愛するただ一人の命を、他の百万人の命より大切だと感じることは、いけないことなのか。
ラストシーン、横断歩道を挟んで吉岡と向き合った杉原。唇を動かすが、声にはならない。
「ごめん」
私には、杉原はこう言ったように見えた。
ああ、決めたのか。家族の笑顔を守るために、悪にでもなると。
杉原の元上司であった神崎は、泥まみれの道を選んだ。でも、その泥に息が詰まって、息ができなくなってしまった。
泥水を飲み続けても生きていけるほど鈍感でなければ、杉原もいつか――。
杉原と、決して悪にならないと決意を抱いた吉岡。それぞれの選んだ正義を実行しようとする二人。
でも、本当は、どちらか選ばなければいけないということがすでにおかしいのだと、気づかなくてはいけない。
透明な水を飲みながら、幸せになれる世界を望む。