「なんもできん」一日の中での「蕩尽」の発見
起床したときから
「あーだるい」
「今日はもーなんもできる気がせん」
「自分の身の回りの全てがグダグダ」
と確信し、丸一日ダラダラ過ごし、いわゆる「クソみてえな一日」を過ごすことは、誰にでも経験があるのではないだろうか。
とある「なんもできん」だるい一日の中で、少し蕩尽(とうじん)について繋がりを感じた発見について書いていく。
蕩尽(とうじん)について
某読書サークルではバタイユの著書『呪われた部分』を読んで(いる人もいて)、その中のワード「蕩尽(とうじん)」について語られている。
蕩尽とは、オンライン辞書では主な定義として、「財産を湯水のように使い果たすこと」
と定義されている。
わたしは興味を持ちつつもパラパラと前書きと目次をめくったぐらいなので胸を張って確言できないところを、
ふわっと肌感覚で得た情報を基に、超絶ザックリ言ってしまえば、
「財産は使うためのものだろうが!
ため込んでるならパーっと使ってしまえ!
そっから動き出す活力ってもんがあるだろうが!」
的なことを著者バタイユ氏は言ってるらしい。
(たぶんね、いやほんまに知らんけど、たぶんよ、たぶん)
このバタイユ氏の言いたいことってこういうことかな?というわたしの感覚について書きたいと思う。
時間の蕩尽は健康のため?
冒頭に書いた「クソみてえな一日」を過ごし、日が沈んで夜になり、その日一日を振り返ったとき、
「あー今日一日まじでなんもしなかったな」
「生産性ゼロ振り切ってマイナスの一日だった」なんて思ったりする。
この「時間」という誰もが平等に与えられた財産を、ダラダラと使い果たすことは蕩尽だなと、先日、至極どうでもいい内容のYouTubeショートを布団の中で見続けて一日を終えた時に感じた。
そして、この場合、バタイユ氏の注目している、「蕩尽から生まれるもの」は、実は「明日の自身の健康」なのでは?という考えが浮かんだ。
誰もがやっている蕩尽、それは時間だけ?
「時間をかける」ことは誰にでもできることだとよく耳にしたりする。
確かに、何もしなくても時間は刻々と過ぎていく。
何にもしなくても人は年老いていく。
経験値をあげたりそのフィールドのボスを倒さなくても、ゲームを起動させていればそのプレイ時間はカウントされる。
だが、本当に「何もしていない」のか?
小学生レベルのクソリプをすると「息してますうー!心臓動いてますうー!(ドヤァ)」という紛れもない事実がある。
肉体は見えぬところでエネルギーを使っている。ゲームだって、起動させてる間はバッテリーは消耗しているのだ。
健康のための、時間と健康の蕩尽
わたしが延々にYouTubeショートを見てる間は何をためらうこともなくスマホの液晶画面を見続け、眼球をブルーライトに長時間晒し続けている。
身体からしたらとんでもない目の酷使である。
「自分の衣食住といった生命維持活動、更に生きていくために必要な経済活動に直結しない、見なくてもいい、しなくてもいいことに、身体のリソースどんだけ使っちゃってんの?アホなの?」
と身体からクレームが入るかもしれない。(眼精疲労はそのクレームなのかもしれない)
脳死状態でのYouTubeショート無限閲覧により、身体は「視力のムダづかい」をしている。
人は無意識で身体のリソースの蕩尽をしていると思った。
「なんもできない」一日、わたしは、身体のリソースを、いわば「健康」を蕩尽して過ごしたことになる。だが、この「クソみてえな一日」のおかげで、次の日には液晶画面にかじりつく以外のことに気が向いて他のことをやることができた。
「何もしない日」をきちんと「やる」
「なんもできる気がしない」と思っているときに、強制的に何かをさせられたり、無理に何かしようとすることは心身の健康を必要以上に削る。(ここでの「すること」は自らが「やりたい!」と思っていないことである)
普段何気なくやることができているときに比べて、なんもできる気がしないときは、様々なやることに対して「支払う健康ポイント」の価格が高騰している。
「なんもできる気がしない日」には、その日に「支払える健康ポイント」を使いたいように使ってできることを「やっている」のだ。
定義のように「湯水のように財産を使い果たす」と聞くと、とてもじゃないけどそんな思い切ったことなんかできないと思う人がほとんどだと思う。が、人はきっと日常で知らず知らずに「蕩尽」をしている。自身の健康のために。もし、自分が不健康だと思う人がいるのであれば、その「蕩尽」が自分に必要な活力を生み出すものではないのかもしれない。
自分のためにパーっとやる蕩尽を感じよう
何度も書いているが、湯水の如く躊躇なく持っている財産をパーっと使うのが蕩尽だ。
これを使っちゃったら後々どうなる…とか先のことをどーこー考えてモヤモヤしながら不安を残しつつ使っちゃうことは蕩尽とは言わない。
自分の健康のために、自分の幸せのために時間と共に蕩尽しているものは何なのか。
「何もできない」と思っているとき、「今していること」は何なのか、ゆっくり自分を観察してみるといいかもしれない。
「今していること」は蕩尽だ。
特に、だるくてグダグダな気分の時ほど。
「自分には何もできない」と思う自分の状態を
回復させるために、
自らの身体は全身全霊で「蕩尽」をしている。
こう思って、自分が動ける日も動けない日も、動ける人も動ける人もいろんな人が世界にいて、今日も自分には自分の、人には人の蕩尽があることを感じる。
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