祖父の死からみつけた「当たり前」の喪失と幸福
あなたにとって当たり前に出来ることは何だろうか。
呼吸、直立、歩行、飲食、発声、まばたき…生活上な基本的な動作や生命維持活動を挙げ出したらキリがないと思う人もいるかもしれない。
この文章の中でわたしが言いたいのは、今あなたが当たり前に出来ていると思っていることは、将来出来なくなる、というそれこそ至極当たり前のことと、その当たり前を失うという絶望を幸福に変えることができるだろう、という発見(気づき)についてである。
祖父の死と「当たり前」の呼吸と身体
先月中旬頃、わたしの母方の祖父が他界した。
ここ10年の間に父方、母方、両方の祖父母の死を看取ってきて、彼らの死への近づき方には同じパターンがあるな、と思った。
といった感じだ。
今回亡くなった祖父も同様、危篤状態の彼は、病院のベッドで酸素マスクを付けられ、全身全霊をもって呼吸を必死に行うことで生命維持をしていた。その姿を見てわたしは思った。
「この人は今まで生きてきた中で自分の呼吸を意識したことがあっただろうか。
当たり前のように出来ている自分の呼吸の状態を観察したことはあっただろうか。
この人だけではなく、今生きているどれだけの人が、今この瞬間に、自分が生きているのは呼吸が出来ているからだと意識しているだろうか」
恐らく自分の呼吸の状態に意識を向ける時間をもつ人は少ないだろう。
自分が息をしていることなんて当たり前過ぎてわざわざ考える価値さえ無いと思う人も多いかもしれない。
だが、いざ呼吸困難に陥ったとき、人は呼吸に全身全霊を捧げる。あんなにどうでもいいと思っていた呼吸がこの世で一番尊いものになる。
失ってからその尊さに気付く。ああ、これが人間だな。
メンテナンスしない車にはいずれ乗れなくなる。
共に過ごす時間を持たない恋人はいずれ別れる。
大切に使わなくなった身体の部位はやがて次々と使い物にならなくなるのだ。
冷静に考えればこれこそ「当たり前のこと」なはず。だがそんな「当たり前なこと」のための空間を用意して生きている人がどれだけいるんだろう。
「当たり前」は無事に当たり前でなくなる
当たり前でいちいち意識を向けないことを、人は徐々に、無意識のうちに手放している。いや、当たり前過ぎて意識を向けなくなった瞬間から、それは自ら離れていくのかもしれない。
徐々に距離を置かれている「当たり前」に気づかず、ふと意識を向けようとしたときに、自分の視界から消えていることを知り、慌てふためく。
出来て当たり前なことは、当たり前のように出来なくなる。無事に、着々と出来なくなる。
その事実は常に自分の身のそばにあるのに無自覚のまま、今この瞬間を「当たり前なこと」を意識することなく、「当たり前に」生きている。
当たり前が当たり前でなくなったとき、その喪失に絶望を感じる人たちも多いだろう。
喪失の絶望を幸福に繋げる「意識」
人は、絶望しようがしまいが、当たり前にできることはいつかできなくなるし、老いていっていつか死ぬ。
だが、意識することでその喪失を絶望ではなく分析する好奇心に変えることはできると思う。
その知的好奇心を育むことが、意識することから始める幸せだと思う。
わたしの意識の幸せ
祖父を看取る際に、わたしが呼吸と人体からこのように考えたのは、毎朝のルーティーンとなった瞑想と体操があるからだと思う。
言わばわたしの朝の儀式だ。
起床後に自分の身体のコンディションをスキャニングする。
瞑想中の呼吸の状態、体操しているときの身体の状態を感じる。
身体のどこにこわばりがあるのか。
今の精神状態が身体にどう影響しているのか。
たとえ自分の理想の状態ではなかったとしても、その日その日の自分のコンディションに問いを立て、観察し、分析することを楽しんでいる。
これで毎日毎朝楽しい時間が過ごせる!
自分の身体と意識以外に特別な物は何も要らず!
しかも無料で!
やば!激安大特価どころやないやろこのお得感!
これを幸福と呼ばずに何と呼ぶ?!
いえーい!やったぜ!わたしってラッキー♡
とまあ、こんな感じで毎朝いい感じに一日をスタートさせることができている。毎日幸せを感じて生きている朝型脳内ハッピー人間をやっている。
絶望をやる?幸福をやる?
どんな生命維持活動でも、どんなに意識高い習慣をもっていても、何をしていようが、出来ることはいつか出来なくなる。
それは命あるものに必ず死が訪れるのと同じこと。
何もしなければ、「当たり前」が自分の領域から離れていっていることに気付けない。
そして「突然消えてなくなった」ときがやってきて絶望に苛まれるだろう。
意識することから知的好奇心を育むことがその絶望を幸福に変える方法だとわたしは思う。
最後にもう一度問いたい。
あなたの当たり前は何ですか?
あなたの今日の「当たり前」の調子はどうですか?
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