杳として知れず ⑦ あれから一週間
「なあ、一体どうした?もしかして気が変わったのか?」
VIPエリアの病室での担当医とのカウンセリングは、個人情報を扱うということもあり、いつも二人きりになる。このところは毎日で、しかも時間外だ。担当医は距離を縮め、手の甲で体の外のラインを撫でて離さない。見る目は熱を帯び、高揚している。
「カウンセリングって、・・・こんな時間に今日も?」
「君は慎重なのはわかってる。だが心配しないでいい、ここは厳重なセキュリティに守られているし外部に漏れることもない。そこら辺は実証済みだろ?」
前とは違い、彼女の体に入った状態でのカウンセリングとなると、残念ながら僕は彼女のことをほとんど知らない。やけに親しげな担当医の問いに答えられなくとも、精神的な入れ替わりの不自然さは、今のところ悟られていないようだ。
だが、好きでもない相手から独特で熱量の高いアプローチに戸惑い、馴れ馴れしさと色気づく雰囲気に耐えられず、体調不良を言い訳にし切り上げてもらう。
「担当医が毎日来てる?それは随分、・・・熱心だね」
ときどき僕の父は遠縁である彼女を気遣い、病院スタッフとともに様子を見に挨拶がてら顔を見せにきた。彼女の体を通し、父と顔を向き合わす時間は懐かしくも新鮮だが、やはりこちらも悟られるわけにはいかない。父と共に現れた病院スタッフは淡々と病室で業務を遂行し、父は差し障りがないよう距離を保つ。カウンセリングと称した担当医の頻度を少し控えてもらうよう要望すると、了承して先に病室を去る。
「前は彼女ぶってベッタリだったのに、ずいぶん"お立場"が逆転したもんだねえ」
院長が去るなり、以前の彼女を知っているらしい病院スタッフは帰り際、皮肉を漏らし扉を閉じた。誰もが去り、静まった病室には澱んだ思惑が残されていく。
あれから一週間。本来、戻らねばならないはずの彼女は夢の街に一人、取り残されている。僕らは互いにすれ違ったままチグハグな進展を迎え、僕の意識が彼女の体で現実に目覚め、僕の体と彼女の意識は戻らない。
僕の本体が眠り続けたままなのはカウンセリングで情報漏洩する、おしゃべりな担当医から聞いた。その情報が確かなのは、訪れる父の疲弊した表情で物語っていた。
真空のように外部の音が全く届かない、この部屋の気密性の高さは夢の街で真っ暗い空間に沈む死に限りなく近い、あの感覚を思い出させ息が詰まる。ある程度動けるようになると窓を少しだけ開け、完全に密封された状態を避けた。窓から流れてくる音や漂う香りを運んでくる外気により、現実に戻れた細やかな歓びを体感できた。
彼女の中の人となる僕は少しずつ状況を把握しようと、記憶があやふやな体を利用し、彼女の母親から事情を聞くことを試みた。
「なんで?暗い話はするなって医者から言われてんのよ」
しかし彼女の母親は訊ねるたびに苛立ちを露わにし、事情ではない不満ばかり口にする。母親は娘はおろか世話になる担当医や院内スタッフにまで、ぶっきらぼうで億劫がるのに僕の父だけは、あからさまなほど例外だった。遠縁であることや医療費を肩代わりしてもらう恩があるからではない、"嫌われたくない"という配慮が見られるのだ。
それとなく父へも事情を尋ねたが何かしらの因縁があるのか、話さない。父の方で借りがあるのだろうか。でなければ生活が困窮している疎遠な遠縁という間柄だけで、高額にかかる医療費を自腹で負担するというのは、少し奇妙に思えた。僕の知る父は人付き合いも少なく、性格もドライで人情家ではない。
彼女の母親は娘に関心が薄く、話はいつも亡くなった夫ではなく、自死の原因を招いたとされる相手のことばかりだ。その相手は離婚訴訟で揉める妻から不貞疑惑をかけられていた。のちに疑惑は"でっち上げ"で済んだが母親の態度を見れば、あながち誤りではないかもしれない。ただ思いが一方通行なのを巧みに利用される可能性はある。
相手は亡き夫の友人で母親の好みなのか褒めちぎり、比較する対象としての亡き夫を蔑んだ。その蔑みには血を継ぐ娘も含まれたが、そうなると母親自身も蔑みの対象になることには無自覚のようだ。その友人とは投資が失敗し、関係が拗れるまでは家族ぐるみで付き合いがあったという。
しかしこの友人夫妻は長年、離婚で揉めていたという話も聞く。もしかしたら亡き夫の友人は、女性を巧みに渡り歩くのに長けているのかもしれない。
「詳しく知らないから恨みごと言うけど、色々と今は助け合ってるの。退院したらお礼くらい言いなさいよ、忙しくてここには来られないから」
彼女の母親が言う、よくわからない理屈を流し聞きながら僕は彼女が夢から醒める方法について、ぼんやりと考える。母親が夢中な友人の話は聞き飽きていた。
僕は彼女と入れ替わった状態で共に衝撃を食らえば、ショックで現実に戻れるのではないかと思った。上辺ではない本気で、彼女が現実へ戻りたいと願わなければ、どう行動を起こしても無理な気がする。ただ彼女も現実に戻りたいのかは定かではない。
"ねえ、聞いてんの?"と、半ばシカトを食らう形の彼女の母親は苛立っている。
「・・・お礼言えって院長?担当医?それとも新しい彼氏?」
「ほんっと生意気!だから話すのも嫌なのよ。あの時も、どんだけ頭下げたか知らないくせに・・・」
彼女の体を通してしらばっくれ、棒読みのように返すと母親は舌打ちし、娘を非難しながら病室を出ていく。病院スタッフの間でも母親の悪評は知れ渡り、表立って非難はしないものの、印象は悪いのが本人は気にならないようだ。
彼女の母親は、一度もだだっ広い病室に寝泊まりすることはない。特に最近は香水を強めに纏わせ、きっと"恩義ある友人"のもとへ身を寄せているのだろう。来てもロクに話すでもなく帰り、ただ表面上は見舞っているという既成事実を作り上げている。彼女の取り巻く環境や現実が、こんな状態なら確かに戻る気にはなれない。居たところでストレスにしかならないような関係性なら、かえって適度な距離を保つ方が、まだ楽だ。
僕は強い臭いを逃すため開けた窓に移動し、しばしゆっくりと深呼吸する。仮にまた夢の街へ行けたとして、どうすれば彼女を現実へ戻せるのか方法が思いつかない。彼女が現実へ戻るヒントは、彼女の目から見た現実に隠されている。僕は彼女の体を通し、彼女が戻るためのヒントを掴まなければならない。しかし彼女を通して見た現実には、やんわりとした不穏さが、そこかしこに紛れている。担当医と彼女との思わぬ繋がりにも驚きを隠せない。前から担当していたなら、彼女の事情をよく知っていたのだ。
ともすれば彼女に会おうとする僕を牽制したのは単に精神衛生上での懸念や、事故に関わる関係とは別の可能性がでてくる。第一、彼女に向き合う担当医は二人っきりになると、より親密な距離で接し、医師というより色気づいた男の下心を強く感じさせ、少しばかり気味が悪い。
そして僕は彼女の危機が訪れていた出来事について知ることができた。病院に収容され始めの頃、見舞いを装い病室へ侵入した塾仲間が昏睡状態の彼女を生配信で晒し、彼女の生命維持装置のスイッチに手をかけて大騒ぎになった件だ。
即日釈放となった経緯は街で権力を持つ一族からの圧力と、"たまたまそこに手を置いただけで殺意はなかった"という証言にあった。しかしその行いにより彼らは、これまでの悪業が露わになる結果を招き、今では多数の件の厳しい事情聴取を受けている。そして被害に遭った彼女は、こうした出来事の安全上の懸念から警備体制が厳重に敷かれることになり、現在に至っている。
意識不明の中、心身に味わった影響は夢の街でどう及んでいるのか。現実に戻った彼女に、再び危険なことは何も起こらない保証は無い。それを感覚的に理解しているから、危険回避として夢の街から出ようとしないのか。
今、彼女の体に僕の意識が入り込んでいることは、やはり僕と彼女で一つの夢が共有されているという証明になるのだろう。ならば僕の体に彼女が入っている可能性もあり、確かめるためにも自分に会いたかった。人を介して聞いた話ではなく現状を直接、確かめてみたい。
そういう意味では貴重な情報源でもある、おしゃべりな担当医は昏睡状態の僕を念のため地下の検査棟の病室にわざわざ置いた、と得意げに話していた。
『なんたって彼は病室で院内スタッフに混乱を起こしたからね。眠ったままだし、地下に置いとくのが懸命さ、スタッフだってその方が仕事しやすい。黙って病室を盗撮してたのが今や、される側とはなんとも笑えるがね』
当面の課題は、それ以外にもある。意識が回復するまでの間、彼女の体はずっと眠りっぱなしのため体力は著しく虚弱だ。長時間起きることができないほど筋力は衰え、立っていられるのがやっとだった。中の人である僕はボロを出さぬため下手に話さず、今のところ記憶の混乱ということで誤魔化せてはいる、そして彼女の体を借り睡眠をとることはできても、夢の街には辿り着けない。少しずつ体力は回復していたが、ジレンマもあり、焦りの色が見え始めていた。
今の状況では、この病室から出ることは許されなかった。ここには全てが完備されているため、よほどの事がない限り、出る必要がない。そして拒むことの出来ぬ、人目を避けて来る担当医の個人的で不必要な訪問も度を越していた。この行為は医者としてではない個人的なものなのだ。あの病院スタッフが軽蔑しながら吐いた皮肉は、担当医と彼女が前から個人的にかなり深い関係にあることを裏付けている。
時折だが担当医や彼女の母親と話す時、脳裏に言葉が浮かぶ時があり、その内容は信憑性が高いのか、親密な間柄の担当医すら彼女と僕が入れ替わっていることを、微塵も疑わないのに一役買っていた。
この時折現れる言葉は、彼女の心情なのではないかと思う。それなら彼女の体には今、ふたりの人間の心が内包しているといえる。僕は心の中で何度か彼女へ問いかけてみるも、それに対する答えはない。
このままではいけないのだ。彼女へ体を返し、本来の僕へ戻らなくてはならない。今、二人とも一人の体の中にあるなら夢の街で体験したように、現実でも行動を起こさねばならない。彼女の体を借り、眠る僕に会いに行けばいいのだ。現実の世界で僕らがもう一度出会えば、また何かが変わるかもしれない。
「彼に会う?ダメだ、それは」
案の定、時間外のカウンセリングで話すと、担当医は猛反対した。安易に彼女と僕が直接、関わることを過剰なまでに危惧してみせた。
「彼は異様に君にこだわり会いたがってた。色々と独自に探ってて俺には一言も、警戒して話さない。いくら昏睡状態で眠ってても油断はならないぞ」
"そう言うと思った"、と落胆してみせる。担当医は隙あらば彼女に触れようとするのを咎めるように睨むと、従順に躾けられた犬のように手を引っ込めた。
「彼のお父様から了承を得て、もう会った。院長が許可したなら文句ないでしょ」
するとこの一言で担当医は、ドス黒く渦巻く失望さを滲み出す表情になった。さっきまでの従順さは、すっかり消え失せ、目の前の懐柔できない彼女に対する怒りを露わにした。僕の中で、担当医に対する警戒心と不気味さが最も高まったが怯むわけにはいかず、じっと堪えた。
「・・・あの夢の街で、お前ら何やってる?一体・・・。目覚めてから一向にその話はしねーし、お互い遊びじゃねえのは分かってんだろ」
この担当医こそ多重人格者かのように、これまでとは全く違う、目の前の彼女を通した僕に対し、重低音で明らかに強迫してくる口調や表情が、一瞬で全身に鋭く危険度を知らしめていた。
『ずっと絶えずあの夢の中で、転落死を繰り返す側にもなれよ。疑似体験といえダメージ食らってんだよ、こっちは。いっそ院長に全部話そうか?息子を関わらせたと知ったら一番困るのはアンタでしょ・・・』
この瞬間で、僕はもう何の権限も無くしていた。いつの間にか自由の利かない意識の最も遠く、あの不安定な暗闇に近い場所にいて入れ替わった彼女自身と、担当医の一触即発した険悪な雰囲気での、やりとりを見守るしかない立場に追いやられる。
僕はここで全くの無力だということを、嫌というほど思い知らされていた。
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