杳として知れず ③ 彼女がいる夢の街
僕が入院してからというもの、どことなく病院スタッフたちによるやり辛そうな雰囲気を間近に感じていた。確かにスタッフからすれば、勤める病院の愚痴や軽口はおろか、ガス抜きの噂話など普段通りの会話を患者である院長の息子に聞かれては困る。
しかも先ほどの弁護士を装い侵入した男の撃退に、自己防衛目的の動画撮影が役立ったことは、同時にスタッフには密かに自分達が監視されていると不快感を抱かせる副作用を及ぼした。確かに侵入者の炙り出しと排除には一役買ったものの普段の激務に加え、気の抜けない新たな緊張が加わる状況に、神経を尖らせるのは当然だろう。そこに急遽決定した、一定期間の訪問者の制限と一般病棟から僕を切り離す判断には、誰よりもスタッフが一番安堵したに違いない。
普段の業務に加わったプレッシャーから解放されるからだ。
僕らのことは、事情を知る周囲が過剰に気を使っている。勝手に気遣われる一因にされる側の僕には、特に肩身が狭い。これは病院スタッフに限った話じゃなく、過剰なまでの気遣いという名の無言の圧は、主に親戚からご近所周辺に至るまで幅広く存在している。
現在の僕の体調はコントロールできない状態にあり時折、強制的に意識が落ちて昏倒してしまう。そのあと目覚めるまで僕は彼女がビルから転落する、あの場面を繰り返す夢を見るようになっていた。
その夢は目覚めるまで何度も同じ場面だけが繰り返され続ける。短いワンシーンを何度も繰り返し見続けるように。その夢でいつも僕は落下地点から離れた位置で、転落する彼女が地面に叩きつけられるのを目撃し、離れた場所にいるのにも関わらず、落下した衝撃に伴う痛みをその都度、我が身に受けるというものだ。
この繰り返す夢の世界では、現実での僕の心理が反映されるのか、ほとんど人は登場しない。夢の中にある街は、あのクラスメイトが属する塾仲間の集団は出てこないし、父もいない。精巧に作られた無人の見知った街の一画にいるのは僕と、落下する彼女だけだ。繰り返される光景には、まるで瞼に焼き付けろと言わんばかりの衝撃さに無言の圧、そして何らかの意志を感じる。
落下地点に僕がいなくても彼女とぶつかった衝撃は、そのまま変わらず僕を大地へと押し潰し、屈服させる。衝撃の余波は場を離れているはずの僕にも容赦なく襲い掛かった。垂直に押し潰されるような衝撃は毎回痛烈で、全身の痛みを受けた僕はその度に身体中に痛みと苦しみに支配される。
ここにいる限り僕らは永久に、その体験を繰り返すのだ。まるで地獄で下された、終わりのない責め苦を受け続けるかのように。繰り返し体感する衝撃での疲れは、そのうち作り込まれた街での地獄から自然と遠のかせていく。
しばらく白い天井を無感情に見上げていて、半ば自らに責め苦を課す自我の物悲しい夢から帰還を果たしていたことに気づくまで、しばらく時間を必要とした。僕はこのところ、ずっとこの状態のままなのだ。
そのせいもあるのだろう、ひどく精神的に混乱するし不安定になる。やがて夢ではない現実であることに気づき、目から一筋の涙が溢れる。嬉しいのか悲しいのか理解できずに胸が詰まって苦しいのだ。眠っても起きても、どこにいても居場所での居づらさは変わらない現実が押し寄せてくる。
僕は眠るのが怖い。眠ればあの夢の世界での責め苦が待っている。そして休まる気配は一向にない。だが恐れていても、あの夢の街での地獄に呼び戻される強烈な睡魔は突然やってくる。それに抗う術を持たない僕は無力だ。
やっと現実での嫌がらせから逃れられたかと思えば、今度は夢で責め苦に遭い自らを苦しめるようなルーティンがオートマティックに繰り返される。その度に僕は痛みを伴いながら傷つき、苦しめられていく。目には見えない透明に流れされる血は絶えずこぼれ、塞いでも溢れた端から失われ続けていく。
担当医によれば僕は一見、寝ているようで脳がずっと活動し続けるため、眠っていても休めてはいないという。そのため疲れは蓄積され、だるさを抱えながら日々を過ごし疲弊していく。常に気は張り詰め続け、あらゆる全てに警戒し続けるため、限界を迎えると自己防衛のために倒れる、というメカニズムのようだ。
そして、いつそれを迎えるかわからない状態であることも加味して、僕は日常生活において色んな制限をかけられている。
これまでにも一般病棟の散歩や、リハビリなどの運動などの用事で病室から出る時は必ず予約や事前の許可が必要で、不測の事態に備えて常に誰かが帯同しなければならなかった。四六時中、僕は誰かに許可を必要とし、見張られているのだ。
どうせ監視されるならと個人的にも、突然の昏倒によるパターンを知りたくて、病室内を二十四時間絶えず、監視カメラによる録画にする対処もしてみた。(だからこそ病室まで侵入した侵入者への対策にもなったが、病院には未許可だったので、担当の医療スタッフたちはドン引きした)
未だ慣れぬ症状による対処へのストレスもある。
こうなる前にはずっと一人、父親の戻らぬ家で半ば悠々自適な生活を送っていた。毎日学校に行き授業や塾での講義を受け、家では家事をこなしながら勉強に勤しむという、至ってシンプルで面白みのない物ではあるが。
だがこれまでの生活は健康で、何の問題もないからこその"当たり前"だった。状況が様変わりした今では、もう当たり前ではない。だが以前は"普通だった"ことが出来ないという自分への失望が、愚かなエリート意識の残る僕の中で、まだわずかに燻り続けている。
クラスメイトの彼のしでかしたことは許しがたいのは変わりないが、その彼を倒したところで、僕が抱えている問題の本質は解決するのだろうか。
ふと僕は思う。意識が戻らないまま眠り続ける彼女はどうなのか。彼女は全く違う夢の世界にいるのか?もしかしたら自分を傷つけるものから離れた場所に身を置き、静かな空間で平穏な時間を過ごしているかもしれない。これまで傷つけられてきた物事全てから我が身を守るように。
それとも目覚めるため夢の世界で、僕のように繰り返し同じ痛みを味わいながら抗っているのだろうか。だとしたら僕は一時的に責め苦を味わうが、未だ意識が回復していない彼女は夢でも戦っているのかもしれない。僕が彼女に会ってみたかったのは、もし僕と同じ目に遭っているなら、彼女は現実から逃れてなお、変わらぬ地獄の中に閉じ込められたままでいる、そんな気がしたからだ。
しかし現時点では、現実の世界でも彼女に会えることはない。実際、夢の方が近いようでも距離が遠く感じる。もっと近づき話したいと思いつつ、僕は保たれた距離を縮めることがないまま、落ちた衝撃の痛みを繰り返し味わい続けている。
元々知り合いでもない他人同士だから仕方ないが、担当医からの話だと僕と彼女が関わる事故の捜査は、進められているものの難航しているようだ。というのも当事者のうち一人は意識不明で、もう一人は医師により聴取を許されていない。
僕は、この夢と現実での責め苦から脱却を図りたかった。
余計なものをすべて削ぎ落とす、少し奇妙な夢の街で繰り返される衝撃と、その影響下で体の不調や症状に振り回されている現実に。奇しくも似た境遇にある彼女を助けられない自責の念が引き起こす無意識下での自傷じみた処罰からも。
もし彼女が同じ境遇に遭い、救えたなら脳裏にこびりついた罪悪感から、解放されるのではという安直な思考だ。浅ましい自己保身なことも重々承知している。
そのためにも彼女と意思の疎通を図りたいが、現実は昏睡状態で皆無に等しく、夢の街では遠くに落ち続ける彼女との関わりを持つ方法を見出せない。せめて転落する前に、話せる時間を持てれば違ってくるのかもしれないが。
しかし繰り返される夢では、いつも転落してからの彼女しか出会わない。夢の街での始まりは、いつも転落する直前だ。そして転落した後もすぐ転落直前に引き戻される。そして全てプログラムされたように、同じことを繰り返す。そこから先も後の世界も存在しない。予め組み込まれ、逃れられないメビウスの輪のように。
頭の中でずっと思考を思い巡らすうち、僕は魂を体から引き抜かれるような、世界がクラクラ回って歪む、強引な知らせがやってくる。その強烈な眠気を含んだ誘惑には、いつも従わざるを得なかった。どんなに身構えていても、拒否権も選択権も今の僕には認められず、それは身勝手な常識を持ち込むクラスメイトのやり方に、とてもよく似ている。
目を開けると、やはりまた夢の世界にいた。
この時はいつもと違い、僕はどこかの薄暗い階段を必死に駆け上がっている。息を切らしながら駆け上がり、見覚えのある場所だと気づいたのは、そこから見える景色が彼女が転落したビルの真向かいにある、有料駐車場の屋上まで上がった時だった。なぜかわからないが急いで向かい、たどり着いた。
すごく奇妙だったのは、この時はまるで自分を切り離した冷静な目線で事の経緯を眺めていたことだ。どことなく自分の体なのに微妙なズレを感じる。思考と行動にタイムラグが発生し、どこかフィットしない。階段を駆け上がっているのに疲れや息苦しさを体感できない。普段の運動とは別の部分が疲労するような、テレビゲームでキャラを操作するときに似ている感覚だ。うまく自分の行動を操れない。何より、いつもの光景とは全く違っている。そういう色んな物事が刷新した独特な不慣れさと、味わう感覚の気持ち悪さは絶妙な戸惑いを与えていた。
真向かいの商業ビルの転落地点の場所にいる、彼女は一人だった。
スッカスカな細い柵だらけの備え付けた非常階段の踊り場で、こちらに背を向けている。そして転落する前なのかこちらを背にした彼女のボディランゲージは、目の前にある何かに捉われている。彼女は必死に何かに叫び、伸ばした手は何度も空を切る。彼女の注意は捉われている何かに注がれており、僕にはそれを捉えることができない。階段の狭い場所で強風にさらされながら、何度も右往左往する姿に、僕は自分を重ねながら見つめていた。
今までは静寂な夢の街で僕と彼女しかおらず、声も一切なかった。しかし今は、聞き取りにくいものの彼女らしき声の他に、明らかに揉めている複数の非難めいた別の誰かの声も届く。今回はいつもと何もかもが違い、かなりノイズが多い。
以前より距離が縮まった彼女は、その何かを捉えるように自らを空中へと伸ばしたタイミングで、吹きつけたビル風により体のバランスを崩し、彼女ごと攫う風に流れ、彼女は宙に舞う。落ち方も以前とは違っている。落ちていく体は、俯いたまま歩く僕が落下地点に到達したタイミングでぶつかり、二人とも地に叩きつけられるように倒れた。これがあの時の真実なのだろうか。
地面に叩きつけられる衝撃により、その場で瞬発的に加わる重力に叩きつけられ、その場で倒れた僕の身体中を痛みによる衝撃が走る。だがいつものように流血や痛覚もあるのに、どこかリアリティに欠けていた。重なって倒れているであろう落下地点にいる彼女ともう一人の僕が、どうなったのか見ることはできない。
衝撃を受けて倒れ込む時は毎回、突っ伏すことになり後のことはわからないのだ。いくら夢の世界とはいえども、繰り返し痛みを伴う体験を味わい続けるのは、正直いい気分はしない。
一体、いつまでこんなことが繰り返されるのだろう。なぜ何度も同じことが僕の目の前で繰り返され、味わわされるのか。彼女の落下する瞬間を何度、見続けなければならない?この繰り返されるループから解き放たれる方法はないか?
僕はひどく疲れていた。そうして知らぬ間に深い眠りに引きずり込まれる。目が覚めて真っ白な天井が見えた時、極度の疲労と緊張状態からの解放と安堵が入り混じり、僕は声を押し殺して一人で泣いていた。
意識が戻った僕を心配し駆け寄った医療スタッフの姿に、混乱した僕は抵抗し、他のスタッフらに取り押さえられ即座に鎮静のための処置を施される。
やめてくれ、休ませてくれ、眠らせないでくれ、もう放っといてくれ。僕をつぶさに監視しないでくれ。僕に取り巻くあらゆる地獄から助けてくれないなら。
素早い処置により効果は見事に発揮し、僕は湖底に長く横たわる泥のように深く眠れた。あの夢の街ではない、姿形を全て飲み込む漆黒の闇の中に。そして再び目を覚ますまで二日ほど時間を要した。
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