杳として知れず ① 病室にて
「彼女を見かけたのは、事故が起こる一ヶ月前です。学校から塾の帰りに立ち寄る商業ビルに向かう途中で、うずくまる彼女を見かけました」
慌ててかけたメガネには、初夏の窓の景色は青茂る木々が風に揺れている。
だがその音がこの部屋に届くことはない。僕は窓から見える、日々変化する風景を眺めながら、そこで騒めく爽やかに揺れる風について想像する。窓を開ければ、てっとり早くそれは感じられるが、今は憚れる事態にあった。
「んーなるほど、彼女はどんな感じだった?」
「痛めつけられて泣いていました。埃まみれで汚れた制服に多数、靴跡が付いていたので、蹴られたんだろうなと。慌てて逃げた集団の中に、同じ制服を着た塾も一緒のやつがいて、彼は同じクラスだったから気まずかったです」
「んー、なるほど。気まずい?」
「被害を受けて怯える彼女から、同じに見られそうで」
傷つけられた彼女は、彼らと同じ制服を着ていた僕を見て怖がり警戒しており、口元が切れ血が出ていたのが見えたので、ハンカチを渡して去ったことを話した。それから彼女とは転落した時まで、会ったことは一度もないことも伝えた。
「んーなるほど。たまたま歩いていたところに、上から落ちた彼女と重なる形で再会を果たすのも不運、いや奇妙なものだ。だが君のおかげで彼女が一命を取り留めているなら、不幸中の幸いかもしれない」
「彼女の容体は、どうなんですか?」
「んー、あまり思わしくないとか。ところでその人物についてなんだけどね」
弁護士を名乗る話し相手は、転落事故における重要人物である彼女について、どうでもいいことかのように素っ気なく流し、僕と同じ学校に通う逃げたクラスメイトについて尋ねる。このクラスメイトの彼とは塾も同じだが付き合いはなく、表面的な情報しか知らない。
「逃げた時は後ろ姿なのに、『彼』だとわかった?」
「振り返ったんです、彼だけ。その時、目が合ったので」
"確かかい?"と弁護士は畳み掛け、続けざまに"君が登校拒否する前、そのクラスメイトと問題があった、その影響はないか?"と尋ねられたことに違和感を覚えた。
「影響?登校拒否?」
「つまりその、疑念を抱く相手への過度な感情が故に、事実とは異なる内容だと、調査の混乱を招くから事前に防ぎたくてね」
要は信憑性の確認だよ、と述べた弁護士に対し僕は、問題のクラスメイトから受けた扱いについて話す。
「彼を含むクラスメイトの数人から受けた、学校での『扱われ方』についてですか。彼らは揃って軽い冗談、と笑って弁明しました。僕は昏倒が相次ぎ登校出来ず、学校からの提案で自宅学習に切り替えた。これが登校拒否ですか?」
すると弁護士は平然とメモを取りながら"表向き"はね、と端折った事実のみを受け取る。その様は笑いながら弁明した彼らと等しく思えて、類は友を呼ぶとは、この事を言うのだと悟った。
「・・・どう話してもあなたには、全て"過度に疑念を抱く相手への、過剰な感情により歪曲した内容"なんでしょう」
体も心も不自由なく、健康が当たり前で余力を持て余す、絶対的庇護下にある意識の高い上昇思考の人間には、今の僕を理解する気は微塵もないのだろう。奥底でじわりと沸き立つ心中を抑え、短いため息に失望を吐き出す。目の前の相手には僕のことなどそもそも他人事で、正直知ったこっちゃないという心中が透けて見える態度だった。
「んー、なるほど」
この男が繰り返す無意識の枕詞は、肯定するように見せかけているだけで、実際には真正面から受け止めることなく、他所へと流しているだけだ。
「会ったんですね彼に。そして『他愛ないやり取りを大袈裟にし、体調不良を利用して良からぬ立場へ追い込んだ負け犬』とでも言われましたか?だがあなたにとってそれは、"過度に疑念を抱く相手への、過度な感情による歪曲した内容"には当てはまらないと。・・・"んー、なるほど"」
男の口癖を僕が故意に使ったことに気づくと不快感を咳払いで表し、それ以上話題に言及することは避けた。心あらずのまま手帳にペンを走らせ、経費で落とした見せかけの文房具を消費していく。病室は気まずい雰囲気で空気は澱み、僕は病院のベッドに深く身を沈める。
「ひどく混乱してるよ君は、まだダメージが大きいんだな」
男は口癖を揶揄された腹いせか、僕の様子を狙いすまして、表向きは同情するかのような口振りで憐れんでみせた。
"あえて『その時を狙って来た』んだろ?"
男の違和感だらけの言動に、僕は喉の奥まで出かけた言葉を飲み込んだ。そもそも個室である僕の病室には<面会謝絶>の札が掲げられ、担当する医療関係者以外は一切、入室を許可されていない。僕の中で意識がバチッと切り替わった。
「そうだお名前は?あなたの名刺をいただきたい。病室に通されたなら許可が出たはず。普段は担当の医療スタッフしか来ないし、聴取は捜査機関ですら担当医が止めている。そうでしょう?」
そもそもこの男は、転落事故に対する訴訟を任されたとして自己紹介もそこそこに、事故の話を切り出してきた。医療スタッフとの交流すらに過敏な担当医や父を伴わず、落下した彼女をさも悪者のように仕立て上げた。その転落事故の現場には、話にも出た僕のクラスメイトも居たのに、彼に関しては疑う素振りは微塵もないばかりか、逆に彼を庇うかような言動すら見られる。
僕は父の弁護士を知っており、それが身分証を瞬時に引っ込めた目の前の彼ではないことも分かっていた。偽物と分かっていてあえて話に付き合ったのは、事故についての事情を一切知らされない僕が、情報を得るためだが当てが外れた。
そして男は僕の要求を一笑に付す。
「お父上に挨拶してあるから、君には必要ない」
恐らくこの男は、あのクラスメイトから僕の情報を知らされ、どこまで知っているのかを探りに潜り込んだのだ。現に『登校拒否』というワードを聞いたとき、いかにもあの彼が侮辱し使いたがる文言で、執拗に送られてきていた誹謗中傷のメールなどに何度も出てきていた。
僕は体調不良により自宅学習をしている身で、通うエリート校で自分のことに集中するクラスの他の連中は、僕の処遇などに微塵も興味はない。わざわざ登校拒否などと表立って言う相手は知る限り、あの彼以外になかった。
僕と彼の知り合いが関わる問題が発端となり、相手の肩を持つ彼が徒党を組んで、日頃の暇とストレス発散に八つ当たるターゲットに僕を据え、学校内での暗黙された『扱い』が始まった。僕が住む街での権力により、多大な影響力を持つ一族に属す彼の行為の殆どが、学校内外の生徒を含む大勢の大人たちによって黙殺された。
クラスメイトである彼からすれば『他愛ない冗談』を『いじめ』と受け止める僕が、事故の後遺症による体調不良を"彼を陥れるために登校拒否にし、事を大袈裟に広め、悪者に仕立て上げようとしている"とでも言いたいのだろうか。
都市伝説並みの常識として誰もが知っている噂通り、不利になれば責任も取らず無理矢理にでも落とし所を作って終わらせる、いかにも彼らしいやり方だ。これまで幾人もが、彼らの蛮行に口を塞がれ『無かった事』と風化を余儀なくされた。
そうして同じように僕を"被害妄想による偏った思い込みで、証言の信憑性に難がある"ようにしたいのだ。後の示談や裁判なりで少しでも優位に立つために。
「担当医からは、どう許可を取ったんです?」
僕は敵だと認識した男を詰めていく。正直、塾でも学校でも僕にとってクラスメイトの彼は、関係が拗れる前から不快でしかない。彼の、仲間には良く見せたいバカな見栄っ張りぶりは目に余るし、思い通りにならぬ僕へは偽った悪評を広め、必要以上に周囲を共犯に巻き込んで煽り、学校内で必要以上に僕を苦境に追いやったことは確かだ。そして関わりを避けたい周囲は、僕の存在と現実を黙殺した。
「んー、それなんだがね。他で診察を受けた方がいいんじゃないかな」
「さっきからずっと不思議なんですが、許可証はどちらに?」
僕が男に許可証の話を持ち出すと男は眉間に皺を寄せ、首を傾げながらスーツのポケットを弄り、探すアクションをする。その意識が逸れたタイミングで、僕は病室の緊急ボタンを押した。そして相手を見据えながら追い込みをかける。
「この病室に入室を許可されたら、許可証を必ず付ける決まりのハズです。安全上の理由でと説明を受けたでしょう?『受付を通った』なら」
「今日は見逃してくれよ。もうお暇するから」
「ご心配なく、手は打ちました」
そそくさと退場しようとした男へ背中越しに、僕が放った言葉と同じく病室のドアが開き、呼び出しに対応した医療スタッフが警備員を伴う形で現れた。
「あなた、誰ですか⁉︎ここは部外者立ち入り禁止ですよ‼︎」
病室内への部外者に警戒心がマックスとなった医療スタッフは、青筋を立てて男を問い詰め、凄まれた相手は悪びれない態度でテキトーな言い訳をし脱出の機会を窺う。出口付近で背を向けたまま、僕を指さして言う。
「んー、実は皆さんがいらしてくれてホント助かりました。間違えて入ったら彼にずっと難癖つけられて、帰してくれなくて・・・」
男は周りへ僕の印象を下げつつ、自分に非がないように言い訳し、立ち去ろうする。
「まずは、これを見てから判断してください」
僕はベッドサイドの引き出しからタブレットを取り出し、今までこの部屋で録画していた動画を音声付きで再生した。映し出された動画には、入ってきたスーツ姿のこの男が、低姿勢で身分証を掲示して近づき、すぐしまう様子がしっかり映され、媚を全面にし僕へ、こう言い放つ。
『お世話になっておりますー、お父上とは長年の付き合いがある弁護士事務所のものです。今日は転落事故の訴訟の件でお話を。えー、簡単な聞き取りですから院内の巡回が来るまでの間、手短で結構ですので』
動画の内容に驚愕する一同に、僕はメガネに取り付けた隠しカメラの存在を示した。
「彼への捜査関係者の接見は、担当医からの指示で一切禁止です!」
録画した動画により病室への侵入者だと判り、青ざめた医療スタッフたちは怒り心頭で身元確認のため自称弁護士へ名刺を要求し、渋々出した名刺を奪い取ると一旦、退出する。
「おい。悪者扱いするな、訴えるぞ!」
男はしきりに病室から出ようとし警備員に挟まれ、退路を断たれていた。まさか自分の言動が全て録画されていたとは知らず、動揺を隠せない。退出していた医療スタッフが戻り、男は身分詐称はおろか訪問者に義務付けられる書類の記入も怠り、それらについても咎められる。
「受付にはお名前すらありませんね。それにうちの弁護士じゃないし、院長や担当医も許可どころか挨拶すらないと。名刺にあった会社は、そんな人物は属してないって」
「なあ、ここ許可証ないと入れないんだろ?持ってないから、さっさと出してくれよ」
男はとにかく、病室から出られればどうにでも逃げられると思っているらしく、やや投げやりな口調で苛立っていた。男の発言に医療スタッフは不審げに眉を顰めながら、こう返答した。
「何言ってるんです?そんなものありませんよ」
僕はここで男へ憐れみを込めて、大丈夫ですか?と優しく声をかける。
「いい医者知ってますよ、せっかく病院にいるなら見て貰ったら」
すると男は怒気を含めた顔つきになり僕に詰め寄ろうとしたのを、警備員が逃さず両側から取り押さえ、床に臥した。屈強な警備員たちに両脇を抱えられ、侵入者は容易く持ちあげられると空中でジタバタと足掻きながら、貧弱さを露呈しつつ院内から退けられていく。嘘と悪事が発覚した途端、迷惑にも男は病院内を大声で張り上げながら、去り際に負け惜しみを吐き捨てていた。
「"イカれた"テメーに話、合わせてやったんだよバーカ!ここの院長の息子は頭おかしいよ!悪質なデマを吐くやつには気をつけたほうがいいぞー!」
「早く外に連れ出して、誰か!すぐ通報してちょうだい」
その男は通報により駆けつけた捜査機関により、公衆の目の前で手錠をかけられ連行された。この後、病室を訪れた担当医から男は、僕のクラスメイトを担当する弁護士事務所の調査員だと聞かされた。男は複数の偽の名刺を巧みに行使し病院内に入り込み、院内を嗅ぎ回っていたらしい。しかしこれらは不当行為に該当し、知り得た情報や証言は、証拠として認定されないと説明された。
事情を説明した担当医が去り、騒ぎも収まった後、窓を開け重苦しい空気を外へ解き放ち、浄化した空間に深く身を沈めた。穏やかな心地の良い木々のせせらぎによって、気分を害する人間とのやりとりに気疲れした僕は、吸い込まれるように眠りへ誘われる。
奥深い眠りの中で、僕はこれまでの出来事を思い返していた。
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