藤原義懐の出家②
あぶれてしまった話です。今回は想像が多いので、ご寛容に。
相任のこと
枕草子の小白河の法華八講で登場した左大将藤原済時の子長命(ながあきら)の侍従。
長命は幼名で、この時の名は相任(すけとう)。
栄花物語によれば、済時は彼を嫡子にと考えていたようです。
同書の中に、まだ長命君と呼ばれていた頃ですが、従兄で村上天皇の御子八の宮永平親王が怖がっているのに、従兄の藤原実方とつるんで、無理矢理馬に乗せてからかったという話があります。相任、なかなかやんちゃですね。
枕草子には書かれていませんが、彼も花山天皇が出家した後、同じ年に出家しています。
花山天皇が出家して半年以内の出家、全く無関係とするには難しいと思っています。
この年、17歳。
だいたい15歳前後くらいで元服するので、侍従に任じられ、この頃まで「相任」を名乗っていた時期は短かったでしょう。
だから、清少納言は名前を覚えていなかったのでしょうか。
もし出家しなければ、三条天皇の后の兄ですから、公卿になり、三条天皇の時代には藤原道長にとっては目障りな存在になっていたかもしれません。(ちなみに同じく当時侍従だった藤原行成は二つ年下です。)
彼には通任という弟がいましたが、若すぎましたし、どうもぼんやりとしていて政治に関する才能は劣っていたようで、残念なところ。
兼家サイド
さて、花山天皇が出家した経緯をおさらい。
大鏡によれば、花山天皇の亡くなった忯子を供養したいという願いを叶えるために、藤原道兼はともに出家しましょうと天皇を内裏から連れ出します。
実はそれは陰謀で、その隙に腹違いの兄道綱が、三種の神器を持ち出し、二人の父藤原兼家は一条天皇を即位させました。
その道綱の息子、道命阿闍梨。
さすが蜻蛉日記の作者の孫、歌人として知られ、歌集も残っています。
また、僧でありながら女禁を犯し、和泉式部とも関係があったという説話が残っています。
彼もまた、まだ少年でありながら、花山天皇のあとを追って出家したとみられています。
花山天皇の頃、殿上童を務めており、出家後も彼はとても交流が深かったようです。
道命の父道綱は花山天皇を出家させる陰謀に加担していたと言われているのに、二人の関係の違いは気になります。
気になるのは、花山天皇を直接騙した道兼もです
父兼家は花山天皇が必ず落飾するよう武士たちに見張らせたといわれます。
しかし、妄想を膨らませて、もし、道兼が主君との出家を妨げられ、時の帝を騙した悪名を着せられたと思えば、父兼家の法要をさぼったという大鏡の記述は、嫡子に選ばれなかったことより、父を恨む理由にならないでしょうか。
道兼の演技が天皇を騙すほど見事だったのなら、別ですが。
政治を動かしていた藤原義懐と藤原惟成の出家のことばかりとりあげられますが、花山天皇が出家をしたことにより、運命が変わった貴族は大勢いたのです。
藤原実方は出家していませんが、政から離れた花山院とは陸奥国に発つまで長く交流がありました。
狂気の天皇と言われる花山天皇ですが、果たして実際はどうだったのでしょうか。
今回はここまで。花山天皇についても、また機会を設けまして。
↓ 興味ございましたら、漫画も少し描いています。
【参考】