藤原道雅と一条天皇
のちに荒三位とあだ名される藤原道雅。
枕草子では、松君の幼名で、祖父藤原道隆に愛され、かわいい姿が描かれています。
また、元服してからも、一条天皇の関白を務めた、皇后定子の父道隆の孫という理由で蔵人少将に選ばれたり、優遇されています。
そして、寛弘五年(1008年)二月、春日祭使を務めるはずだった藤原公信が触穢のために祭使をできなくなった時、藤原道雅の名があがりました。
道雅は急なことなのでと、一度辞退しました。
左大臣藤原道長は息子藤原教通を提案します。しかし、教通は去年も祭使をしています。一条天皇は、道雅をと仰せになりました。
結局道雅は祭使は辞退しました。
当時何かの役目を与えられると、必要経費や道具に装束は全部自腹でしたし、この頃の父伊周は不遇でしたので、準備ができなかった可能性もあります。
その年の秋、今度は道雅は、帝による、道長の娘中宮彰子の生んだ敦成親王の産養の御使いに選ばれます。
敦成親王は、道雅のいとこ敦康親王と東宮の座を争うことに、いえ、敦康親王の存在を脅かす存在。道雅の心境はいかがなものだったのでしょう。
(実際、敦康親王は立坊されず、敦成親王は後一条天皇として、即位します。)
しかし、一条天皇の意向ももちろんなにかしらあったはず。
二年後、寛弘八年一条天皇が亡くなり、三条天皇の御世になると、急に道雅の乱行が目立ってきます。
ひょっとしたら、もし、一条天皇の世がもう少し続いたら、「荒三位」は少し違ったかもしれないと、思ったりします。