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紫式部日記の中の道雅(平安中期アンソロジーを作りました③)
今回は拙作の話です。
『荒三位のプロローグ』
![](https://assets.st-note.com/img/1710549170099-7AKfLXPstT.jpg?width=1200)
「荒三位」と呼ばれる前の道雅の話です。
前に書いた記事はこの構想があってのものでした。
中関白家の起死回生?の頼みの綱、敦康親王は、藤原道長の娘彰子に養育されています。
さらに、怖れていたことに、彰子はとうとう皇子を出産しました。
敦成親王(後一条天皇)です。
隆家は彰子の出産に立ち会ってますが、道雅の父伊周は、准大臣の地位を与えられたのに、日記には一度も登場しません。
もしも、伊周が拒まれたのなら、道雅が御使いでは、明らかに場違いではないでしょうか?
でも、選ばれる理由があった。
そんな話です。
いくつか理由は考えましたが、ここに着地しました。
『紫式部日記』をもとに大筋を描いているのですが、紫式部がどこかにチラリとしか出てこないので、紫式部に謝らねばなりませんね。
あと『御産部類記』も参考にしました。
使いはこの後、被物を賜って、宴席についたようです。
『紫式部日記』には道雅が来たことしか書いていないので、助かりました。
余談ですが、このあと、白一色で統一されていた彰子のまわりの調度や装束が、通常に戻されます。
『瓦屋の下焚く煙は人知れず』
ページが余ったので、埋めるために書きました。いつも藤原実方の話をしているのに、私が代表して作った本に一瞬も出ないのはどうかとも思っていましたしね。
藤原実方から見た清少納言、清少納言から見た藤原実方です。
たった2ページですが、今まで、調べてきたものを詰めこんでみました。
『枕草子』にある豊明かりの節会の時は清少納言は藤原実方をどれほど意識していたのでしょうか。
(弁のおもとに清少納言の歌を伝えてもらったが、実方の中将に、)え聞きつけずなりぬるこそ、なかなか恥隠るる心地してよかりしか。
弁のおもとが素晴らしく聞えるようにとするほどに、実方の中将には聞えにくくなってしまったのは、私の詠んだ下手な歌(恥)が、いい具合に紛れてしまう心地がして、よかったんじゃないかしら。
清少納言は、実方が小兵衛に歌を詠みかけたのに、誰も返歌をしないので、定子に仕える女房を代表して詠んだのに、女房として、ほんとうによかったのでしょうか。
実方が歌の上手であったことは、負い目でもあったのか。
疎遠になった理由の一つでもあったのか。
清少納言が懇意にしていた藤原行成も、夫だった橘則光も歌を詠むのが好きではありませんでしたから。
ちなみに、前編の冒頭と後編の締めが皮肉な繋がり方をしています。
参照:池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫2017
他にも、いただいた掌編では、和歌を多く扱っていますよ。
メロンブックス/フロマージュ
https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2344507