敦明親王の生誕日なので簡単に
正歴五年(994年)五月九日は、三条天皇の皇子敦明親王(小一条院)の生誕日です。(昨日です。旧暦だと六月ですが)
敦明親王が生まれた頃、三条天皇はまだ東宮、帝は一条天皇でした。
一条天皇はまだ十五歳の少年で子がおらず、敦明親王の生母娍子の父済時は、いずれ父のように左大臣、そして関白になることも夢見たのでしょうか。
敦明親王が産まれたことを喜び、実方と済時が詠んだ歌が残っています。
しかし、長徳元年に大流行した疫病で、済時は亡くなり、実方も翌年赴任した陸奥国で客死。
娍子の兄は出家しており、後ろ盾ははかないもの。娍子の腹違いの兄為任は官位が低く、同腹の弟通任は若く、官吏としても頼りなく。
居貞親王の子どもたちが幼い頃は、誰もが一条天皇のもとでばかり、いかに権力を握るかに気を取られているようでした。
綏子も原子も亡くなると、道長が娘の妍子を入内させえるまでの8年間、居貞の妻は娍子一人でした。
居貞は兄弟とも仲がよく、6人のこどもに恵まれ、、幸せな時期だったのでしょうか。
寛弘八年(1011年)、15年もの東宮時代が終わり、念願の天皇に即位。
けれども、同じ期間一条天皇下の朝廷にいた公卿たちとは衝突が絶えませんでした。しかも体調までくずし、目を患い、退位をせまられるまでに。
敦明親王は、この頃には、右大臣藤原顕光の娘の聟になり、子も授かっていました。
父のいたたまれない姿に、敦明親王は不満が溜まっていたのか、そういう気性なのか、出家すると騒ぎになったり、公達たちと暴力沙汰を起こしたり。
そんな人なので、誰もが彼が東宮になることを憂慮しました。結局、父三条天皇が押し切り、長和五年(1016年)一月、三条天皇はたった五年で退位、敦明は東宮に即位しました。(かなりごねましたが)
翌年、三条天皇が亡くなります。
折しも、敦明親王の誕生日、寛仁元年(1017年)五月九日でした。
その年の八月、敦明親王は、父の願いは叶えたからもういいだとうと、東宮を降りてしまいます。
ただではありません。天皇になっていないのに、太上天皇並みの待遇を求めたのです。藤原道長は、それを認め、妾室の高松殿の産んだ娘寛子を妻として差し出しました。
敦明親王の東宮時代には、東宮の証とも言える壺切御釼を渡さなかったり、散々冷遇してきたのに、手のひらを返したように厚遇します。
こうして、敦明親王は小一条院と号し、高松殿の子息たちと関係を深めていきます。
そして、藤原氏を外戚にもたない後三条天皇の誕生、白河院による院政に関わってくるのです。
敦明親王は、道長の圧力で楽な方へ逃げた、問題ばかり起こす仕方のない皇子のようなイメージがあります。
しかし、それだけなのか。
前置きはここまで。今後の記事で彼のことを分かち合えたら、幸いです。
《参考》
倉本一宏『三条天皇』ミネルヴァ書房
※トップ画像は前に描かせてもらったコミックの表紙。敦明親王と藤原顕光と妻延子、そして敦貞親王。