「キリキリトッポおじさん」
※これは小説投稿サイトのエブリスタに投稿したものを加筆修正したものです。
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呼び止められて振り返ると、真っ黒い人影が立っていた。黒い山高帽に黒マントで身を包み、手に黒いステッキをついている。顔にはぎょろついた目と悪魔的な鼻、その下に嫌味なまでに細いヒゲがピンと跳ね上がり、画家のダリにとてもよく似ていた。
「お前に頼みがある」
「すみません。急いでいるのです」
「大したことではない」
「これから就職の面接なのです」
嘘ではない。生活が、いや、人生がかかっている。
「わしのキリキリトッポをワシシさせてやろうと思うのだがな」
僕の言葉を無視するように、おじさんは言った。だから、僕も無視して立ち去ろうと背を向けた。途端、おじさんはステッキで僕の肩をつついてきた。僕は、ムッとして振り向いた。
「いや さっきからどうもキリキリトッポがサバルメないんで困ってるんだ。だから、お前にキリキリトッポをワシシさせてやろうというのだ。悪くあるまい?」
逃げるしかあるまい。どうして大事な時にこういう人に捕まるのか。まず、関わってはいけないな。
「こんなチャンスはめったにないぞ。お前たちのような者が、キリキリトッポをワシシできるなんてことはな。どうした、うつむいて」
僕は走り出すため、そっと膝を落としかけていた。
「何だかウルサイのう」
おじさんは、近くのゴミステーションを振り返った。そして、そこに群がるたくさんのカラスの方へ、ステッキの先を向けると、ピシ、ピシッと先から何かが飛び出した。
途端、カラスが二羽頭を撃ち抜かれ、他のカラスはいっせいに宙に飛び去った。
おじさんは、何事もなかったように僕を振り返り、こちらの目を覗き込んできた。僕は、生まれて初めての状況に巡り合っているようだった。
「さ、早いとこやってしまおう」
「あ、あの、すみません。その、僕は、そのキリキリ・・・なんとかっていうのが、ちょっと、よく分からないので・・・」
たださえギョロリとしたおじさんの目が、いっそう見開かれ、唇は歪み、ヒゲは狂気の振れ幅を示すかのように細かに振動した。
「キリキリトッポが分からない!? 嘘をつくな!!」
体が委縮するほどの怒鳴り声だった。それでもう、怖くて何も言えなくなった。
「では、聞こう。お前は普段どうやってロロチンタをララヌってるんだ? まさかキリズッパをタバセんでいるのか?」
ごめんなさい。何もかも分かりません。
「ああ、そうか。もしかしたら、お前は何か急いでいるな?」
今ごろ、気づいてくれたんですか?
「そうか、そうか。それは失敬した。では、こんな無駄口を聞いている暇はないというわけだ。それでお前が嘘をついた訳が理解できたぞ。それでは、お前には時間がないということだから、気を取り直して、早いとこキリキリトッポをワシシしてくれ。さあ!」
だめだ。やるしかないのか。僕は、ここで、それが一体何なのか、さっぱり分からない何かを‥。
「いやいや、違う違う。キリキリトッポだ。キリキリ・・・そこはキリキリトッポじゃないだろ! からかってるのか、キリキリトッポはここだろ! さあ!
そうそう。うまいぞうまいぞ」
もう面接には間に合わないだろう。会社に電話しなくちゃ。電話させてもらえるだろうか‥。
「おい! 別のことを考えるな! 集中しろ! そのままキリキリトッポを…イテテッ! ハヌマってるよ!」
「ごめんなさい!」
「ワシシだ。ワシシして欲しいんだよ、私は」
「はい。ワシシですね。ワシシ、ワシシしないと‥」
「そうそうそう。そのまま、そのまま‥ワシシだ、ワシシ! そうだ! そうだ! できるじゃないか!」
「で、できました!」
僕だって、やればできるんだ。
失敗ばかりが人より目立つ人生だけど、何か、小さな自信が持てたような気がする。もしかしたら面接に行くよりも、長いスパンで見ればこれはこれで貴重な体験だったのかもしれない。
「フー‥、いや、ありがとう。やっと楽になれた」
おじさんは、油っけの抜けた顔つきになり、僕の手を両手で支え持って感謝してくれた。僕は、照れた笑顔をおじさんに返した。
「それは、よかったです。何だか、僕も一皮‥」
「じゃ次はパッパとプープをドンパって、グメグメしてくれたまえ!」
おじさんの目が、再び三白眼となり僕の目を射すくめた。一瞬、ずっとこのおじさんに付きまとわれるのではないか、という恐怖が頭をよぎった。
「どうした、涙など浮かべて。なんでぺこぺこ謝る? 急いでいるんだろう? 早いとこやってしまえ。さあ! どうした!」
僕は、涙を拭った。僕の現実は、ここだけだから。
「違う! パッパと言ったらパッパだ! ヌガッ。ヌガって言ってるじゃないか!」
「すいません!」
「まったく 急にカナピッピをハタヌるやつがあるか。カナピッピをハタヌるととてもヌガいんだぞ」
「はい。もうカナピッピはハタヌりません!」
「プープとからめてドンパるんだよ」
「はい。こうですか?」
「そう。そのままドンパるの。ドンパる。ドンパれ。ドンパれ。そうそうそう‥ウンッ、ウハアッ!!」
おじさんはマントを両手に広げ、一気に宙へ舞い上がると一回りして空に輪っかを描いた。その輪っかに空が切り取られると、ぽっかり赤黒い穴が開いて、そこからトルコの軍楽隊のラッパのような音が鳴り響いてきた。
おじさんは、一度だけクルリと下の僕の方を振り向いて、片手でひょいと帽子を上げてみせると、そのままその穴の中へと飛び込んだ。
穴は、とたんに閉じられて、またもとの空の景色に戻ってしまった。
僕は、口をあけて、いつまでも空を見上げていた。そして、生きていると、何か他の人が出来ない事をやりとげたはずなのに、これほど何も残らないことがあるんだなあ、とぼんやり考えていた。
(了)