『針が止まるまで』
『針が止まるまで』
カッチ、カッチ、カッチ……。
胸の中の時計の音が、徐々に緩やかになっていく。
ご主人様に仕えて早50年、寿命と言うのはこんなにも穏やかに流れるものだと感じられるのは、この50年が私にとって幸せだったからだろう。
「ご主人様、お茶が入りました」
「ああ、ありがとうね、フレッド」
私はご主人様のベッドの横で膝を曲げ、よく温めたカップに、アールグレイを注ぐ。
ご主人様は私の手から、ソーサ―とカップを受け取ると、コクリと一口だけ口をつけ、傍らの机の上に置いた。
「うん、美味しいわ」
一口でも飲んでくれる、ご主人様の優しさが、私の胸の内の時計に油をさす。まだ、止まる事は許されない。
カッチ、カッチ、カッチ……。
「ご主人様、今日はお伝えしたい事があります」
「あら、なぁに?」
「私がご主人様の元に仕えて、50年になります」
「もうそんなになるのね、早いわね」
「はい、この50年、とても幸せな時間でした。ご主人様にお仕え出来て、とても穏やかで、幸せな時間でした。ありがとうございました」
「フレッド、それを言うのは私の方よ。貴方は本当に、私によく尽くしてくれたわね。本当にありがとう」
「勿体ないお言葉です」
「フレッドの淹れたお茶を、もっと飲みたかったわ」
「恐悦至極でございます」
「ねぇ、フレッド、もっとこっちへ来て? 顔をよく見せて」
「はい」
私がベッドに横たわるご主人様の元へと近づくと、ご主人様は私の頬に、その深い年輪の刻まれた手を優しく添えた。
「貴方は、変わらないわね。でも知ってるわよ。貴方の時計は、もうすぐ止まってしまうのでしょう?」
ご主人様は、瞳から雫を零しながら、柔らかく微笑んだ。
「仰る通りでございます」
カッチ、カッチ、カッチ……。
ああ、胸の時計よ、未だ止まらないで下さい。私は、ご主人様を置いていく訳にはいかないのです。
「本当に今までありがとう、ゆっくりおやすみね」
「未だですよ。私は、ご主人様を置いていく訳にはいかないですから」
「律儀ね、ふふふ、でも、もういいのよ」
カッチ……、カッチ……、カッチ……。
胸の内の時計が、緩やかになって来てしまった。
ああ、後、もう少しだけ……。
***
動きが緩慢になっていくフレッドの胸を、私は開き、その時計を確認した。
もう止まってしまったその時計と、自身の胸の内の時計を、私は交換した。
これでフレッドは、私を見送る事が出来るだろうと信じ、私は彼の胸の扉を閉じた。
彼の最後の意思を守る事が出来、私は幸せな思いで、瞳を閉じた。
***
目が覚めると、ご主人様は、私の腕の中で動かなくなっていた。
ああ、ありがとうございます、ご主人様。
最後に、ご主人様を看取る事が出来、私は満足です。
カッチ、カッチ、カッチ……。
不思議と、先程までよりも軽快に動く時計の音に耳を貸しながら、私はご主人様を抱きかかえ、部屋を後にした……。