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表現をするということ

どうも、三村直輝ことなっきーです。

北海道十勝・浦幌町の廃校=トコムロラボ(以下ラボ)でカフェをしたり、ラボの運営をしたりしています。

今日は帯広にある就労支援施設AMUAiさんにてアートワークショップに参加してきました。

毎週火曜日はなんらかのワークショップをされています。

ひょんなご縁からおつなぎいただいて、施設の方とワークショップをしたり、施設の方がラボに来ていただいたりと親交が続いております。

いわゆる悩める若者が集い、革製品を作ったり、アートをしたり、料理を作ったり、お掃除をしたりと幅広く、自分の興味のあるものを続けています。

僕も卒業してすぐの会社を半年でやめてから、悩める日々が続き、家に引きこもる時期もありました。

そこで僕は農業で若者を元気にするというNPOに出会い、元気を取り戻したという過去があります。

なので、施設に来ている方々の気持ちも少しわかる気がしていて、親近感がわくし、何か自分にできることはないかな、という気持ちになります。

その方々と今回はアートワークショップに混ぜてもらい、テーマは生と死について思い思いに表現をするというものでした。

何も聞かずに参加したものの、テーマの重さに最初は戸惑いましたが、少し前に「死」と対面していたので、思ったよりはすっと飲み込むことができました。

手を動かせば閃きが起こる

「死」と向き合った時のことを思い出しました。

・生前の奥さんの祖父は最期にずっと感謝を述べていたこと。

・目の前の「死」とは人間の身体が横たわっているという事実から、色味は肌色と黒色と白色。

・昔から知っていたわけでもなく、そこまで深い付き合いはないものの、対面すると涙が溢れて止まらなくなったこと。

そのことを思い出しながら、描いていくと途中で筆が止まることもあります。

でも、そこを少しでも手を動かすことによりふっと急に閃くように表現の仕方や幅が広がるような気がしました。

普段から、自分を表すものとしての表現方法がないことからジレンマを感じることが多々あります。

絵が描けたら、物作りができたら、楽器ができたら、と無い物ねだりをする日々。

でも、表現する方たちは最初からいきなり、絵が描けたのでも、ものつくりができたのでも、楽器ができたのでもないんだよな、と。

やっぱり手を動かし続けて、あーでもない、こーでもないと言いながら切磋琢磨して自分を磨いてきたからこそ光るものが見えてくるということなかな、と。ふと思うのでした。

今こうして、ブログを書くことが自分の表現の一つなのかもしれません。

以上、三村直輝ことなっきーでした。

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