人形劇「毛皮のマリー」(平常)
人形劇俳優という言葉は、生まれて初めて聞いた。
人形劇ではないのだ、人形劇でありながらも自分自身でも演じていくのが人形劇俳優なんだろうか。それがまず面白い。平常(たいら・じょう)の「毛皮のマリー」のことだ。
「人形劇」という言葉を調べると、「人形を介して表現する演劇」と出て来た。果たして平常の演劇は人形を「介して」いるのかと言えばよくわからない。操る側の平常は決して黒子ではなく、人形と対等に対峙しているように見えるからだ。人間が上、人形が下でもなく、その逆でもない。そのくらい平常の人形は生き生きとして、人のようにそこにいた。人形には見えないのだ。
「毛皮のマリー」は言わずと知れた寺山修司の傑作戯曲として歴史に名を残している作品だが、無学な私はその日初めて「毛皮のマリー」を観たのだった。強烈で、猥雑で、心揺さぶられて、でもわからないこともたくさんあって、その直ちに共感も出来ないが目を反らすことの難しいマリーをはじめとした数々のキャラクターに、セリフの数々に、簡略化されながらも洗練された美術の数々に心が釘付けになった。
最も心に残ったのは、マリーの「毛皮」だったのかもしれない。衣装や小道具では登場しなかった毛皮は、マリーという人そのもののはずだ。
人は誰しもそれぞれの「毛皮」をまとっている。だが、自らが何かを「まとっている」ことを否定する人は、マリーの毛皮を見て言うだろう。「そんな醜い、汚らわしい毛皮など捨ててしまえ」と。もしくは「それではなく、こっちのドレスを、スーツを着るべきだ」と。
「毛皮のマリー」は、様々な形や色の毛皮を、誰にはばかることなく纏おうとする人たちに送られるシャンソンのような物語だと思った。シャンソンについては、よく知らないけれど、マリーの歌うシャンソンはたしかに美しかった。けむくじゃらの平常の足を観ながら、そう思った。
おまけ
平常=たいらじょう、という名前がまた不思議だ。へいじょうではない。「平常=へいじょうなこと」なんてないとでも言いたいのか。いや、それは勘ぐりすぎかもしれないけれど。ヘンテコな、忘れられない名前だ。
面白かった。また観たい。
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