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亡き母の誕生日に、家とか嫁とか考える私は、妻からまたウェッティな性格ねと言われます

結婚する前に妻がつぶやくように言いました。

「わたしは『嫁』って呼ばれたくないな」

鹿児島出身で蠍座の私は妻曰く、保守的でじっとりした性格とのこと。

(鹿児島のみなさん、蠍座のみなさん、すみません)

たいした家柄でもなく、商売を継ぐわけでもないのに、実家に固執して家にとりつかれているそうです。

だから、そんな家に嫁ぐのは釈然としなくて、嫁と呼ばれたくない、と。

確かに、私のまわりの男性はほとんど「ヨメ」という呼称を使っていますね。

たまに「女房」とか「ワイフ」とか言う方もいますけど。

鹿児島の同級生と飲むと、それがさらに「オメ」というカライモ言語に変換されて、南国風の土着な響きを醸し出していました。

(ちなみに、電話で「もしもし」のことを「もしもっ」ってオジサンたちは言っています)

結婚して10年経ちましたが、妻がそんなつぶやきを覚えているかわかりません。

私はあれからずっと「妻」という呼称を使っています。

おっと、別に愛妻家自慢をしているわけではありませんよ。

中薗商店が閉店してからたまに「家」について考えています。

妻からは「あなたにとって家=母でしょう」と言われます。

母は、銀行員の父に嫁いだのですが、諸事情により中薗商店を切り盛りすることになりました。

結婚して数年は専業主婦だったのに、ある日突然、商売人になったのです。

そしてここでほぼ半世紀を過ごしました。

母にとってはこの中薗商店こそが家でした。

母の実家は同じ町内にありますが、どちらが本当の家という感覚だったのか聞けず仕舞いです。

中薗商店は田舎の店です。

戦後に満州から帰ってきた祖父が始めたそうです。

峠のふもと、渓流に沿って狭い盆地に田畑があります。

たくさんの夢と希望と家族がそこにはありました。

中薗商店では、その当時山村では手に入りにくい鮮魚なども取り扱いました。

たばこ、酒、塩など免許制の専売品はもちろん。

山羊や鶏なども飼育され、ロンという犬が吠えていました。

いつしか街頭テレビも設置され、いつも集落の人々が集まってきました。

人々からは「みせ」と呼ばれました。

買い物は店。飲ん方は店。とりあえずの集合場所は店でした。

家の子供たちは「店の子(みせんこ)」と呼ばれていました。

総天然色の時代になり、店番が代替わりし、新しい子供たちが生まれたときに店も生まれ変わりました。

当時にしては斬新なデザインと緑色の屋根が、また多くのお客さんを店に引きつけました。

盆と正月にはお中元・お歳暮用に白い包装紙で包まれた焼酎の一升瓶が、店奥の私たちの居住空間まで所狭しと並び、アニメのムーミンに出てくるニョロニョロのようでした。

朝7時から夜の10時くらいまで、ほぼ休みなく母は店のことをしながら、勤め人の父と子供たちの世話をしていました。

日曜日も店は営業しているので、家族でお出かけという記憶はほとんどありません。生活と営業がほぼ同一でした。母は店に嫁いだわけではなかったのに、結果として「店の嫁」になりました。子供心に驚嘆するほどマメに働いていました。

どちらかというと、店じゃない家が羨ましかった。でも、もちろん店で暮らして良いこともたくさんありましたので、それは追々ご紹介していきます。

で、私たちは自然と誰も店を継ぐことなく県外へ進学していきました。

父が亡くなりだいぶ経ってから、母は店を閉めることとしました。全盛期と違って、町内にはコンビニエンスストアや外食店などもたくさんでき、ご近所のお得意さんたちも年老い、お客さんは少なくなってきました。

たまに帰省すると、農作業の帰りにヤクルト1本飲みながら母と長話をしている老婆たちの楽しそうな姿がありました。

いまから、数年前に中薗商店は閉店しました。

一日の大半を母がそこで過ごした店は、店じゃなくなりました。なんかぽっかりと穴が空いた感じ。

母が嫁として過ごした時間は住居スペースより店舗の方が長かったかもしれません。

さすが「店の嫁」です。

尊敬の念を込めてそう呼ばさせてもらいます。

いつか、中薗商店をリノベーションして、なにかできたらいいなと妻と話しています。

もちろん、妻は店の嫁じゃなくて、店長…かな。

で、私が店員だと幸せですね。

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