もっともらしさや常識
昨年開催したTEDxHimi2108−2で、徳島大学の渡邊先生に、昆虫食について話しをしていただいた。
その時、乾燥コオロギを提供していただき、実際に参加者の皆さんにお出ししたものだが、乾燥コオロギは、例えばエビの干物に較べて海産物特有の生臭さがなく、後から感じられる優しい旨味もあって、意外と美味しいものだという実感を得た。
ただ、調子よく食べていて、ふと虫の足が皿の脇にこぼれているのを見ると、はっと我に返る。これがまさに、自分がまだ虫を食べ物と思うことに馴染みきっていない証拠だ。
どうも、昆虫食が定着しなかったのは単純に、家畜としての効率が悪く、通年安定して穫れるものでもなければ、必須の珍味というほどの魅力が無かったというだけのことではないかと考えたが、いかがなものだろうか。
乾燥ものを提供していただいた、熱帯地方に生息している種類のコオロギなどは、現在はかなり効率よく養殖できる様になっているうえに、更に養殖の効率化は進んでいく様子。食べた時に感じられた旨味からすれば、新たな出汁のもととしては十分に可能性が感じられるし、現にコオロギラーメンは存在している。
などと認識を新たにしていたところ、Facebookで友人が、食用昆虫の自販機についての何処かのブログ記事にコメントしていた。しかし、そのエントリーのコメント欄には結構否定的なものが並んでいる。
昆虫なんてものは、そもそも食べる必要がないという話しだろう。慣れておけばサバイバルの時に生存率が上がるなどというのも、そもそも食料として見られないものという扱いだ。
そこでふと考えたものだが、食わないから別にいいという話しでいえば、鯨や犬も同じだ。スロベニア人の友人は、俺はイカの寿司食うし、美味いと思うけど、嫁さんはチャレンジすらしないと先日笑っていた。
とりあえず、韓国人を蔑むにあたって「犬を食う」というのは嘲りのネタとして使う連中が多いが、「虫を食う」ということに関して現時点では、大きくその行為自体を否定しても構わない種類のことの様だ。
とりあえず自分の常識の範囲から外れるものを嘲っておいたり、気色悪いとか、そういうひと言で切り捨てがちなのは人間よくあること。自分でも、何かやっているものと思う。
原田知世がスカトロというのは、昔島田紳助がトーク番組で手こずって腹立ちまぎれに適当なことを言ったのだと考えているが、例え原田知世が本当にスカトロだったとしても、ずっとファンをやめられない人間としては、そこも含めて問題なく受け止めて、むしろ本当ならクソにぐらいまみれる覚悟も厭わないと口走ったら、なぜ自分がファンだと言っている口がそんな風に蔑めるのかと言われたことがあった。
何を受け入れ何に拒否感を感じるかの線引きというのは、なんやかんやで繊細で難しいものだし、そこの態度表明に使う言葉には個人差もあるということだろうか。
そんなわけで、簡単に、あいつらおかしいんだとか、常軌を逸しているというのは、自分や仲間に実害が及ぶというものでもない限りは、蔑んで切り捨てることのないよう、気をつけることにしたい。