火曜日の夜が稽古なので水曜日は演劇のことを考えがち
演劇をやっていますといっても、実のところ明確な基礎というものがない。
高校演劇の経験者は、一通りの発声練習や柔軟体操、ある程度の何かを知っている場合があるが、その基礎と台本を読解して演劇に立ち上げる回路については、ほぼ無い。
概ね、何らかの形で声が出るだけという場合がほとんどで、声が出るか。正確なアクセントでセリフを言えるのかというのは、高校演劇が上演される規模感でいえば、そのくらいの大雑把さでも大丈夫なのだろうと推察するが、自分が居る位置や向きの妥当さや相手との距離感を見ながら
セリフにつなげられる人というのは、なかなか見たことがない。
高校生が若さにまかせていろいろ全力でやる分にはよいのだけれど、大人が死ぬまで研鑽していくものとしては、非常に荒っぽく、手薄なところもあり、再構築、再入門は必須だと考えている。
ただ、高校の部活動という、ある意味生活の一部の中に組み込まれた身体性やものの見方の再構築が即座に可能なほど、日本では見て考えられるものも少なければ、手がかりになるものが少ないのも事実だ。
どんなことを体に馴染ませていくのか、模索は続いている。
以前、どなたかのブログで読んだのだが、日本の演劇に「演技のスタンダード」が無い歴史的な背景について述べておられて、さて、現代においてもその必要性が一瞬問われたことはあったが、決着はついていないと、その様な事を書いておられた。
何処のブログだったかも記憶は定かではないので恐縮だが、日本のそうした事情については、佐藤郁哉『現代演劇のフィールドワーク』が、2000年に入る直前に諸々詳らかにしていて、これ以後も、構造的な変化の発生は無いものと思っており、件のブログについても、納得しながら読んだものだ。
確か、そのブログでは日本での演技のスタンダードについて概ね「世界標準の俳優教育しようぜ派」「学校で俳優教育は無理派」「新しい方法論を構築する派」の三つに別れるのだと見ておられた様に記憶している。
自分は「新しい方法論を構築する派」で、90年代の静かな演劇以降、写実性というのはなんだろうかと考えながら田舎で模索を続けている異端者だ。
全体の共通言語というものが無いからこそだろうか。演劇を見ていると、同じ劇団の同じ舞台に立つ人たちの間で共有されている演劇の文法と、そこへの馴染み方が見て取れる。
看板女優、組織の幹部俳優を中心に、共通言語が体に馴染んでいる感じが薄くなっていくアレと言えば、思い当たる人も居るのではあるまいか。
ただ、そんな形は、どうにも形骸化を多く含む様に感じられ、また、週に一回集まって稽古するのがやっとの大人が、「生活の中のあらゆるものを糧に一生研鑽を続けていくにはどうすれば良いか」という問いの答えとしては適さない。そう考えて、90年代からずっと、静かな演劇で表現し得る写実性について模索しているのだけれど、何処か知らない土地の異端者は、今どんな成果を持っているだろうか。あわよくば、見に行きたい。