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4月始め 2021-0405

日記を書くのは初めてじゃない。

子供の頃に書いたことがあるし、そのほとんどが痛い中二的記録だ。

今回は好きな作家が日記を書いていたから自分も書いてみよう

という、可愛らしい動機で書き始めている。

決して来るべき最終決戦に備えてとか

この記録を何百年後に読んだ者に風の加護が継承されるとか

自分がいた世界との唯一の通信手段とか

抑制しきれない力を文字にしたためるしかないとか

そこらへんの理由ではない。



人身事故が多いな。

私が使っている私鉄はこの時期、毎日と言っていいほどダイヤが乱れる。

原因の大半が人身事故だ。

ご時世も手伝ってさらに盛んに起こっているように思う。


完全に"決め"に行っている人もいれば、不注意でぶつかっちゃいました!な人もいる。

この手の事故に対してよく言われる定型文に「どうせ死ぬなら迷惑をかけない方法でやってくれ」「死ぬのは勝手だけど会社に遅れるこっちの身にもなれ」「遺族の賠償責任が凄い」等がある。


上記の意見もほぼ誤解なく理解できていると思うし正にその通りなのだが、それら正論をぶっとばして事故そのものが私には只々恐ろしくてしょうがない。その都度怯えてしまう。

人身事故という身近に起こる公開された人の死が、日頃安全ガードで隠されている「終わりスイッチ」を押そうとする。それは、まだ経験したことがないけど必ず経験する恐怖の巨影であり、一度姿を現すやいなや、いとも簡単に私の存在を塗りつぶしていくのだ。


想像するに、飛び込んだ人は最終解としてそれしかなかったのだろう。


・仕事あるいは学校が嫌でたまらない

  ↓

・仕事と学校(嫌な場所)以外居場所がないと感じる

  ↓

・話をできる対人がいない

  ↓

・現状を回避するとさらなる悲劇(主に金銭関係等)に見舞われると予想する

  ↓

・死ぬまでこうなのかな...

  ↓

・自分の存在が他者に影響していない日々を送っている

  ↓

・今死んでも同じか...


先週急行を待つ駅のホームで考えてみたら恐怖で蹲りたくなりました。こわい。

最終形態"死"がこんなに早く習得できるなんて春はどれだけ危険な季節なんだ。

私自身は今のところ、死へ向かう動機にかける生活を送れていると思う。

驚くべきは飛び込んだ人の思考を想像してみたら案外できちゃうものなのだというところ。


十人十色なので心情はこればかりではないだろうが、自分の中の終わりスイッチの輪郭を見てしまった気がして本当に怖くなった。


「のんのん日和」見るとかじゃ解決できないのね。

できないか。