司法の政治介入も問題だ。
東京高検検事長だった黒川弘務氏の定年延長を巡り、法務省内で協議した関連記録を不開示とした国の決定を、大阪地裁は違法として取り消し、開示を命じた裁判。
これに対して、京都新聞の社説。
まず、前提として、内閣が黒川氏個人のために法律の解釈を変えたことは、これははっきり言って良くない。それはわかる。
しかし、この判決の中で裁判所は、
「解釈変更は黒川氏の定年延長が目的と考えざるを得ない」と指摘した。
司法がここまで断言する権利があるのだろうか?
この裁判は記録の開示を求めた裁判である。解釈変更の理由まで求めていない。それは理由がどうであれ、政治的、行政的判断だ。それを、司法がこうゆう目的だったと勝手に決めつけていいのだろか?
政治的判断、行政的な判断は、違法であれば別であるが、今回の場合、違法ではないわけであるから、それは内閣の裁量権の範囲であり、司法がどうのこうのいう事ではない。
それが、良いか悪いかを決めるのは、国民であり、最終的には選挙だ。
この問題は、野党によって、相当追及され、その後、何度も選挙はあった。
そして、また、いつものようにマスコミの論調が、
「検察の独立」と「政権の人事介入」をことさら強調している。
はっきり言おう、検察は独立でない。日本国憲法制定のさい、独立ではなく、法務省、つまり行政の一部門と決めたのある。
なぜなら、統帥権の独立を盾に暴走した軍部の反省から、独立ではなく、行政管理下に置いたのである。
検事総長の任命権も内閣にある。
マスコミは「検察の独立」を言い過ぎだ。本当に独立が必要なら、法務省から完全に分離すれば良い。
法務省の下部組織でありながら、法務省を牛耳り、しかも、内閣から独立であるなら、まさしく統帥権の独立を盾に暴走した戦前の陸軍と同じではないか。
「検察の独立」をことさら強調する人たちの論理はこうだ。
政治家はほっとけば悪いことをするから、正しい検察に取り締まってもらおう。
もういい加減、「司法=性善説」、「政治=性悪説」はやめたらどうか。
中世のごとくいまだに「人質司法」にたより、数々の冤罪を生み出してきた「司法」のどこが「性善説」なのか。
国民が選挙で選んだ国民の代表の政治家がなぜ「性悪説」なのか。
マスコミはもっと「日本国憲法」を読め。
内閣に多大な権限を与えているではないか。
その権限は、国民が選んだ、国民のための、国民の権限だ。それが「性悪説」で、それで政治が良くなるというのか。
それは、もちろん悪い政治家もいる。それは選挙で落とせばいい。
もともと、安倍政権の数々の「悪事」の原因は、第二次安倍政権が選挙で全勝だった「おごり」からではないか。
だったら、悪いのは国民だ。
けして、「検察が独立」でなかったからではない。
悪い政権は、どんどん非難するするべきだ。しかし、だからと言って政権の人事権まで否定するのはおかしい。
最近は裏金問題で政治資金まで否定されつつある。
人事権を否定され、政治資金も否定され、ただただ、がんじがらめにされた政治家にいったい何ができようか。