あさま山荘事件 “獄中”50年 無期懲役囚を揺さぶった裁判長の言葉。
1979年3月、日本中の注目が法廷に集まった。
社会を震撼させた「あさま山荘事件」の実行犯である「連合赤軍」元幹部に、初めて判決が宣告されるからだ。
元幹部・吉野雅邦(現在73歳)は、同志14人の命を奪った“リンチ殺人”に加担したなどとして、検察官から死刑を求刑されていた。犠牲者の中には、自らの子どもを身ごもった妻の金子みちよさん(享年23)も含まれた。
その日、裁判長は3時間近くにわたって、とつとつと判決理由を説明した上で、最後に主文を告げた。
結論は「無期懲役」。死刑ではなかった。そして、裁判長は吉野に直接語りかけた。
「被告人は生き続けて、その全存在をかけて罪を償ってほしい」
事件から50年、生きて償うことを課した裁判長の言葉を吉野はどう受け止めてきたのか。
親友が見た罪の意識の“変遷”
少年時代からの親友で、事件後も吉野と手紙のやりとりを続けてきた大泉康雄さん(73)は、吉野の罪の意識の変遷を見てきた。単に友人というだけでなく、出版社に勤めた経験から、彼の人間像を明らかにしようとしていた。
大泉さんに届いた手紙や手記などを見ていくと、吉野は「あさま山荘事件」で逮捕された後、約10年にわたる裁判の途中でその態度を大きく変えていることがわかる。
裁判が始まってからの数年間は、反権力意識を前面に押し出していた。その頃の手紙には「権力と闘う」といった内容の言葉が繰り返されている。
「この裁判所に、われわれの行動を裁く権利はない、裁けるのは人民だけだ」
(吉野の手紙より)
大泉康雄さん:
「吉野自身、判決は死刑じゃないかと思っていた時期がかなりあって、それで検事の取り調べに関しても素直じゃなかったことがあったと思いますが、訴訟指揮や裁判所で石丸さんとやり取りをしていくうちに、司法に対する信頼が膨らんできたんだと思います」
石丸裁判長との出会い
吉野ら「連合赤軍」メンバーの裁判を担当した最初の裁判長は、公判期日の間隔を短く設定するなどしたため、弁護団は準備ができないと抗議し、被告たちも出廷拒否の抵抗を見せた。
裁判が遅々として進まない中、事件から3年後に東京地方裁判所に赴任し、2人目の裁判長になったのが石丸俊彦さんだった。石丸裁判長は弁護団や被告に相談する時間を十分に与えるなど、これまでの裁判長とは異なった対応を見せたという。
新たな裁判長との出会いを、吉野は手記でこう振り返っている。
「石丸裁判長とも闘うつもりでいたのですが、先生の指揮に出会って、私の中で大きな思想転換が生じ始めたのです。この国では、不十分ながらも、基本的には民主主義原理が生き、実践されている。石丸先生がその実践者と思えたのです。それまでの、国家権力が不当に国民を支配しており、革命運動や反権力闘争は不可避かつ正義の行動、との認識が崩れていったのです」
吉野は法廷ですべての事実を明らかにして、どんな刑でも甘受するという姿勢に転じた。審理中、法廷で話が妻・みちよさんのことに及ぶと、吉野は泣き崩れてしまい、休廷する場面もあったという。
1979年3月の判決当日。石丸裁判長は主文を後回しし、先に理由を述べた。そして検察が求めた死刑ではなく無期懲役を言い渡した。石丸裁判長は吉野に語りかけた。
「法の名において生命を奪うようなことはしない。被告人は自らその生命を絶つことも、神の支えた生命であるから許さない。被告人は生き続けて、その全存在をかけて罪を償ってほしい」
700ページにわたる判決文には、緻密な事実認定がなされていた。事件から7年が経っていた。
検察は「刑が軽すぎる」と控訴したが、1983年2月、控訴審でも石丸判決の内容が支持され、吉野の無期懲役が確定した。
吉野は死刑を免れたが、判決確定後に大泉さんに宛てた手紙には、生きて償い続けることへの動揺が見られる。
「生きて償え、という判決を受けてみると、何かいっそのこと死刑判決の方が、気が楽であったのかも知れぬ(中略)やはり自分の義務として生涯にわたって事件・行動を振り返りつつ歩み、そこから学んだ教訓を自ら生かすとともに、広く明らかにしていかねばならない」
(吉野の手紙より)
石丸裁判長からかけられた言葉の最後の部分に、吉野は胸がつかえていた。
「君の金子みちよさんへの愛は真実のものであったと思う。 そのことを見つめ続け、彼女と子どもの冥福を祈り続けるように」
自ら死に追いやった女性に対して、“真実の愛”などありえるのか。
その言葉は絶えず吉野の中で反すうされることになる。
「君と社会で会えると信じています」
千葉刑務所で服役を始めた吉野は、まもなく筆を手にするようになる。なぜ自分は誤ったのか。事実関係や当時の自分の心理をもう一度見つめ直そう。自分の考えを文章にまとめようとしたのだ。
だが、思ったように進まなかった。
このころ吉野が刑務所の外部の人間に送った手紙はほとんど見つかっていない。当時、面会は家族などに制限され、親友の大泉さんも会うことや手紙のやりとりはできなかった。そうした中にあって、吉野の執筆する文章の送り先はなかった。
服役しておよそ10年の時が過ぎた1992年。吉野に転機が訪れる。
思いがけない人からの便りが届いた。更生に役立てて欲しいと、同封されていたのは1冊の聖書。そして、手紙にはこんな言葉がつづられていた。
“必ずやこの社会に復帰できますことを信じて祈っております”
差出人は、吉野の1審判決を言い渡した元裁判長、石丸俊彦さんだった。すでに退官し大学で法学を教えていた石丸さんは、ずっと吉野のことを気にかけていたという。
それ以降、2人は手紙のやりとりをするようになる。毎年の誕生日とクリスマスになると、石丸さんからは励ましのメッセージが届いた。
「満45歳の誕生日おめでとうございます」
「貴兄の日々を祈っています 勇気を出してください」
「明日に備えて生き続けてください」
「君と社会で会えると信じ、祈っています」
さらに石丸さんは吉野に愛用していた腕時計を贈った。
いつの日か社会復帰したあかつきには、これを身につけて新たな人生を歩んでほしいという願いからだった。
「皇国兵士」と「革命戦士」
なぜ、一裁判官が元被告をそこまで気にかけたのか。石丸さんの過去の体験に理由があった。
1924年生まれの石丸さん、少年時代から「腐敗した世の中を直したい」と正義感にあふれていた。1936年に、陸軍の青年将校らが武力によって体制転覆を目指した「二・二六事件」が起きると、その青年将校たちに憧れを抱き、16歳で陸軍予科士官学校に入学した。当時の日記にこうつづったという。
“私が軍人になろうとした真の目的は、端的に忠道の完徹にある。しかして、忠道を完徹しようとするなら、大元帥陛下(天皇)の威光のため自己を滅却して大義に立ち、喜んで死地に邁進する軍人こそ、日本臣民の最上の名誉ではないだろうか”
1944年に陸軍士官学校を卒業すると、歩兵部隊の少尉に任ぜられ、ビルマ(ミャンマー)の戦地に送られた。現地ではジャングルで敗走。帰国後、本土決戦要員として待機したが、そのまま終戦を迎えた。
1200人以上いた士官学校の同期生の約3分の2が戦死した。そして、玉音放送の際には上官の大隊長が、石丸さんの目の前で割腹自殺。その大隊長が最後に言い残したのは「諸君らは生きて、この国を立て直して欲しい」という言葉だった。
石丸さんはしばらく「空虚」になったというが、大隊長の言葉に報いようと法律家を目指した。そして終戦から約30年後、かつての「皇国兵士」は、「革命戦士」と称する青年に出会う。
「私は吉野君に自己を見ています」
親友の吉野のことを調べていた大泉さんの元に、石丸さんから届いた手紙。そこには、かつて大義を信じて疑わなかった青年が、戦争体験を経てたどり着いた境地が記されていた。
「私の願いは『平凡な万人の平凡な生』です。そのためにどんな弱者一人たりとも死んではならない、命を奪ってはならないということです。天皇ウルトラ信奉者だった私の願いです。『革命』はいかなるイデオロギー、哲学でもってしても、弱者には無用である。このことを私は先の戦争から学びました」
その後、石丸さんと吉野との手紙の交流は、石丸さんが2007年に82歳で亡くなるまで10年以上にわたって続いた。
“先生に報いるために”
石丸さんの訃報を新聞で目にした吉野は、一晩中何も手がつかなくなった。そのときの気持ちを大泉さんへの手紙で吐露している。
「全身を叩き潰されるような衝撃を受けました。私にとっては命の恩人とも言うべき先生ですし、存命中に、現在の立場と思いに立った事件への省察書をお送りせねばと思っていたので、その点、申し訳ない思いが一杯です」
石丸さんから課せられた“全存在をかけた償い”ができているのだろうか。
自問自答する吉野は、自らの罪に向き合うための文章を少しずつ書きためていく。
この頃には手紙が許可されていた親友の大泉さんの元に、その文章は送られた。限られた手紙の枚数の中にびっしりと書かれた文字。10年以上かけて、何度も何度も書き直した。
大泉康雄さん:
「後期になるにしたがって、罪の意識が重くなってきているというのは感じます。だから、裁判の最初の頃は森恒夫や永田洋子といった指導者のせいにしていたことに関しても、だんだん懺悔(ざんげ)の気持ちがわいてきたようです。実質的に殺したのは自分じゃないかという思いから、書くようになっていきました」
獄中の吉野の様子は…
かつて千葉刑務所に服役していた男性から、吉野の受刑生活の様子を聞くことができた。
男性:
「体の不自由な人の腕を抱えながら歩く姿は印象に残ります。すごくおとなしそうだけど真面目で、介護される方を一生懸命サポートされていたなと。車いすを押していたり、薬を塗ったり、おしめを替えたり…『ああ、そんなことまでするんだ』と、感心して見ていたことがあります」
石丸さんと吉野の交流が始まったのと同じ頃、この刑務所に「養護工場」が設置される。障害のある受刑者や高齢の受刑者がマーカーペンの組み立てなど、比較的簡単な刑務作業を行う場所だ。
しかし、それでも彼らの多くは何らかのサポートが必要で、トイレや風呂に1人で行くことが難しい者もいる。吉野は彼らの介護役を志願し、養護工場の担当者を任された。
以来、20年以上にわたりその担当を続けてきた。その心境を大泉さんに宛てた手紙にこうつづっている。
「人の命を軽視し奪ったことの償い、というのはあり得ませんが、せめてもの代償行為として、人の命を支え生かすことによって、自分の責務の一端を果たし得れば」
時が経過しても
事件から40年が過ぎた頃、吉野を取り巻く環境も大きく変化していった。
かつて、あさま山荘の前で息子に投降するよう呼びかけた両親は、息子の服役後もその帰る場所を守ろうと、実家で暮らしていた。父親は事件を機に会社をやめることを余儀なくされた。
その父親も10年前に亡くなった。母親は94歳で身体が動かなくなるまで、週の面会日には欠かさず息子の元に通い続け、刑務官の間で「水曜日の母」と呼ばれたという。2年前、99歳で息を引き取った。
いまは弁護士の古畑恒雄さん(89)が吉野の身元引受人となり、実家の管理なども引きうけている。
元検事の古畑さんは50年前、長野地方検察庁の公安事件担当で、軽井沢で逮捕された連合赤軍のメンバー4人を取り調べたこともある。そうした縁もあって、5年ほど前に吉野の世話を頼まれた。
検事や弁護士を長く務めてきた古畑さんは、吉野を支え続けた石丸元裁判長の姿に感銘を受けたという。吉野から預かった石丸さんのメッセージカードは、どれも「愛」という文字がつづられていた。更生の道を信じた石丸さんの意思を受け継ぎたいと、古畑さんは、罪に向き合おうとしている吉野を見守っている。
吉野の「償い」は届いているのだろうか。
あの冬からの50年、その長い時間を被害者遺族は苦悩の中で過ごしてきた。
妻・みちよさんの兄にメールで今の思いを寄せていただいた。
「実兄としての辛い気持ちよりも若くして命を絶たれた子を想いながら過酷な晩年を過ごし重い心の負担を負いながら世を去っていった両親いかばかりかと思っております。
自分としてもこのような妹を事前に救い出せる手立てがなかったのかという若き日への後悔と自分への呵責にさいなまれてきました。
吉野受刑者とみちよの関係もご承知とは思いますが守るべき人間を守らずあの残酷な死に追いやった人間として今でも最悪で許さざるの人間であるとの認識はかわりません」
“真実の愛”とは
去年10月、73歳となった吉野は刑務所内で突然倒れた。40度近い高熱にうなされ、生死の境をさまよい「自分はもうここまでかもしれない」と死を強く意識したという。医療刑務所に移送され、一命はとりとめたが、人生の終焉が近づいているのを感じた吉野は病床で1つの文章を書きあげた。
タイトルは「<随想>故石丸俊彦先生への報恩について」。その長さは400字詰めの原稿用紙86枚に及んだ。50年目の手記は古畑さんに託された。
なぜ自分は間違ってしまったのか、そこには吉野のいまの答えがつづられていた。
「とくに痛感したのは、私たちが“革命を目指した”ことの愚かさです。人々に幸せをもたらす、いわば打出の小槌(こづち)のようなものと捉えていました」
弱者の命を奪うような戦争や革命の大義は不要だ。かつてそう説いた石丸さんの信念が、吉野の手記にも反映されていた。
「社会を変え得るのは、決して人々の“怒り”の行動や“勇気ある少数者の突出した行動”などではなく、声を発し得ない民の心の底からの願いであり、祈りなのではないか(中略)人を変え得るのは、力ではなく、本人への愛情を込めた説諭による他ない、と思えるのです。そうです。石丸先生が、自ら身をもって実践されたように」
石丸さんが吉野を諭すときにいつも書いていた、「愛」についても言及している。
「自分が“愛すること”について、否定的な捉え方をしていたことに気付きます。愛情そのものを、利己的な感情の如くみなして、家族や友人関係もすべて、昇華-淘汰さるべき個人的関係であるかのような考え方にとらわれていたのです。
人を愛するためにまず必要なのは、自分の存在を肯定的に捉え、自分の足でしっかりと立ち歩む姿勢を保つことではないか、と思えます。かつての私のように、自分を疎かにし、他人や組織に従属し、自分を失うような状態では、人を対等な人格として尊重できず、相手の立場や心情を思いやることはできない」
そして、石丸さんが法廷で語りかけたあの言葉。
「君の金子みちよへの愛は真実だったと思う」
自らの妻と子を死に至らしめた吉野は、自分の向き合い方に「愛」があったとは思えなかった。“真実の愛”という言葉の重さに耐えられなかった。
吉野は手記でその真意を捉え返す。
「私は今、あるいは石丸先生も、それを十分承知された上で、尚、“真実なものであった”と言われたのではないか、と思い直しています。
残生の“全存在をかけて償うこと、彼女らの冥福を祈り続けること”それによって彼女への愛が真実であったことを証明しなさい。そう説示されたのではないか」
「愛が真実であった」という言葉は、過去の行動に向けられたものではなく、未来の更生と贖罪(しょくざい)のためにこそ、石丸さんは語りかけたのではないか。
吉野の、50年目の“気づき”だった。
そして今日も刑務所の中で、終わり得ぬ省察を続けている。
今回、吉野受刑者とは手紙のやりとりを重ねました。その手紙の中で印象に残った一節は、リンチ殺人の起きていた山の中から逃げ出したメンバー(有期刑で服役後に社会復帰)と、そうしなかった吉野受刑者との違いは何だったのか尋ねたときの答えでした。
「一番の違いは、私の場合、離脱後の生きる場所が見出せなかった点だったと思い得ます。
この社会は、障害者、底辺労働者やアジア民衆の犠牲の上に成り立っている、
その社会に順応していき、
市民的生活を送ることは、
犯罪的で許されない。
その思いから、いわば組織に身を託し、しがみついていた状態だった、といえます。
結局、私にとっての生きる場所は、あの山の中か、監獄(社会的死を意味する場)しかない状況ではなかったか、と思えてなりません」
私には吉野受刑者の「生きる場所」は他にあったのではないかと思えてなりません。
それは彼の両親や親友、そして妻・みちよさんが、提示していたものだと思います。
かつての吉野受刑者の行動は、一見すると“強い意志をもつ個”を求めているようで、
実は目の前にいる大きな存在に従属、安住し、
自分で考えることを放棄していて、“個の解体“につながるもののように感じました。
吉野受刑者の半生を見てきたとき、償いようのない大罪に、
あえて「生き続けて償え」と諭した石丸元裁判長の言葉は、
今の時代を生きる私たちにも自主自立の心を保ち続けることの大切さを語りかけているように思います。
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