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余暇

これだけSNSが発達してしまった世の中で、自分の人生を生きることは、とても難しいことだと思う。
アルバイト柄、中学生に対して「自分の判断で決定しなさい」と唄っている僕も本当に自分の人生を生きれているのかと聞かれれば、自信を持ってイエスとは言えない。
そのことは昨日一日の過ごし方を振り返ればわかる。
巷に蔓延するコロナウイルスとやらのおかげで人生において初めてに近いほどの暇を味わっている。それも「金がない」「行く場所がない」という制約条件付きの暇である。
本当に何も起こらない日々が続いているのだが、どうしても僕にはやってみたい事があった。それは自転車で自然が溢れたところに行き、本を読んだり昼寝をしたりして一日中過ごすということである。普段Twitter、Instagram、Facebookなどを見て、LINEでトークしているからこそ、あえて自分だけの時間を過ごしたいと思った。
昨日は、気温も高く外にいてもなんらきつくない最高の日だった。朝9時半に家を出発して、チャリを漕ぎまくる。10時半には岸根公園についた。駐輪場に自転車を止めて、目の前のローソンでサンドイッチとお茶を買い、公園に入っていく。空は雲ひとつなく、まさにこれを求めていたのだと全身が活きいきしようとしているのが感じられた。
落ち着く場所を見つけ、本を開く。SNSは開かないと心に決めていた。太宰治の短編集を読む。周りではバトミントンをする女子中学生や、縄跳びをする小学生。サッカーをする親子などがわんさかいる。そんな中でも太宰の短編集は割とすんなり入ってきた。1つの話を読み終えたあと、さっそくInstagramを開いた。友人たちの過ごし方が気になっていたのかもしれない。箱根に向かう車中の友人、公園で遊んでいる友人など一通りのストーリーを見たあとそっと携帯を閉じてまた本と向き合った。2時間ほど経っただろうか。なにか心が満たされていないことに気がついた。なんだろうかこの焦燥感。倦怠感とは違う。何かに駆り立てられて焦っている。とは言っても、なんの予定もないし、やらなければならないこともほとんどない。もしかすると何かに駆り立てられなければと焦っていたのかもしれない。またInstagramを見た。今度は自分のアカウントで公園に1人できたことを自白するストーリーをあげた。これはほぼ白旗に近かった。僕は自分の判断では生活ができていないことに気がついてしまったのだ。なんと皮肉なことだろうか。あれだけ自分らしくとか他人の人生を生きるなと言っている男が、SNSによって他人に支配された人生を送っているのだから。最もSNS中毒というわけではない。誰かと繋がっていたい欲が強いだけなのだ。生まれてから今に至るまで、人といる事が多いため気がづかなかっただけで、もともと誰かと繋がっていたい欲が強いのだ。これは個人の独占欲の話だ。さらに言えば"We"の独占欲だ。「俺達」という内輪への独占欲だ。もっと簡単に言えば、人と離れる事が怖いのだ。人が離れて行ってしまうくらいなら、自分の時間や主観を捨てることは厭わないのだ。なんと哀しいことだろう。白旗としてあげたストーリーに友達から反応があり、自然の少ない横浜で合流した。大桟橋から見た横浜は、たくさんの人の働きによって光り輝いていた。俺達は、なんの目的もなく、ただただ昔のことや今のことを話しながら練り歩いた。「俺達」の想い出や価値観を確かめた。なんだか不思議な安心感が生まれた。


と、せっかく太宰を読んだので太宰っぽい文章を書いてみようと思ったまでで、1ミリも病んでません。
大学の授業開始日が4/23になったらしいので、まだまだ暇が続きます。みんなよろしくたのんます。

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