分業制にご用心
今日は、親知らずを抜歯するための予備検診で、総合病院に行って来ました。
久しぶりに外出したのですが、いろいろ観察できて面白かったです。
受付の人、看護師さん、レントゲン技師、お医者さんから患者さん、何してるかわからない人まで。
そうした中でぼくが感じて、考えたことを書いてみようと思います。
それは、仕事についてです。
仕事とは何かについて考えていました。
仕事をしている人なら当たり前のことだと思われるかもしれませんが、仕事はなんといっても「分業」が基本です。
これがぼくの中で、20世紀ドイツの大哲学者ハイデガーの言っていることと結びつきました。
どういうことでしょうか。
ハイデガーは『存在と時間』という主著の中で、「人間は死を意識した存在」という捉え方をしました。
これを「現存在」と言います。
ハイデガーが『存在と時間』の中でなにを言っているかは非常に難しいのですが、ぼくはメインテーマとして人間の時間の有限性について言っているのだろうと思います。
ぼくらは、死という時間の有限性を自覚しないと、いつまでも自分は生きていられるものだと思ってしまうものです。
そして、若いうちは実際にそう思いがちで、際限のない夢や希望を描いたりします。
ですが、それはホントに上手くいくものなのでしょうか?
ぼくの経験では、そういう夢は、必ず現実に打ち砕かれてきました。
どこにでも転がっている青春の蹉跌とか若気の至りというやつです。
ある一定の年齢を経過した人なら分かって貰えると思いますが、「あの頃、ぼくは何もかも欲しがっていたなあ」という恥ずかしさを伴う追慕みたいなものです。
いや、中年になっても、まだ欲しがることは多いんですけどね。
なぜそれが必ず若者が通る道なのか。
それは仕事が必ず「分業」なのと関係あります。
若者は「分業」の壁の前で必ずと言っていいほど打ちのめされます。
ホントはあれもしたい、これもしたいと思いながら、諦めていく過程。
ぼくは仕事が「分業」なのは、人間が「死」をもって時間の「有限性」に突き当たるからだろうと思いました。
仮に人間が無限に生きられるとしたら、1人で全部やっても構わない。
受付も診察もレントゲンも看護も会計も患者も全部1人でやれないことはない。
そうは言っても、1人でやるには手がかかり過ぎますけどね。
でも、ひとり残されたらそうせざるを得ないかもしれない。
でも、そういうのは、ハナから出来ない相談になっている。
これを哲学的には所与の条件と言います。
与えられた所与の条件を無視したイマジネーションは、あってもナンセンスにしかならない。
普通はくだらないって言われて却下されますね。
先人や後輩もいますしね。
大人になるとはそういうことだと思います。
そういうわけで、今日は、多くの人が出社式など、晴れがましい初出社の日ですね。
夢と希望をどうか忘れずに。