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人生の無意味さに比べれば、文章に意味を付けるのは簡単なことである 村上春樹『風の歌を聴け』

なんでいまさら『風の歌を聴け』なのか。
それにはこんな個人的な動機があった。

実はあまりにも暇を持て余していたので、ひとつ小説でも書いて新人賞に応募してみるかと思い立ったからだった。
我が身をよくよく顧みてみたら、そんな資格は備わっていないことは明らかなのだが、つい魔がさした。
何度目か分からない。
小説家になれると本気で思ったことはないのだけど、時々こういう浮世離れしたことを思いつく。

いつもの病気だが、どうやって小説を書いたら良いか分からない。
たいてい思いつきとも言えないぐらい短い間悩んですぐ諦めるのだが、今回はいつもより一歩踏み込んで、それなら村上春樹のデビュー作を読んでみるかと思った。

実は『風の歌を聴け』は何度目か分からないぐらいたくさん読んでいるのだが、今回は1時間ばかり読んだところで、やっぱり小説は俺には無理だと思って諦めた。
この『風の歌を聴け』は、スコット・フィツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が下敷きになっている二次創作みたいなもので、良いお手本になると思ったのだが、読んでいて自分の勉強不足が恥ずかしくなった。
そこまで熱心に小説も本も読んでいないのだ。
いや、全くお恥ずかしい。

結局、純粋に読書として何年振りかに楽しむことになったのだが、その間の自分の経験値の蓄積のせいか、なんだか身につまされる話になっていた。
おなじみの音楽の話にしても、ビーチボーイズやらグレン・グールドやらマイルス・デイヴィスやら、まあ、知ってる人からしたらどうということのない有名人ばかりなのだけど、ぼくは最近になって昔の音楽を漁りだしたため、ほうほうそういうことだったか、と目から鱗が落ちる思いで読んだ。 
いや、まだまだ知らないミュージシャンの方が多いですが。

はて、さて、村上春樹は、文章について、こんなことを言っていた。
生きることの困難さに比べたら、文章に意味を与えるのは簡単なことだ、と。
そして、それが落とし穴だと気づくまでずっと時間がかかった、ノートの真ん中に線を引いて片方に得たもの、もう片方に失ったものを書きつけていくと、失ったものを最後まで書きつけることが出来なかった、とある。

これをぼく流にアレンジすると、村上春樹は解釈学をやろうとしていたということになる。
解釈学というのは、聖書の解読から、哲学の世界で、世界を解釈する学問に発展した思想のことである。
平たく言うと、この世界を丸ごと解釈するということだ。

例えば、女の子が大学でコピーを頼んできたとしよう。
彼女にはなんら深い意図はなくとも、俺に気があるのかなぐらいは思う男は多いかもしれない。
この点、彼女の意図は試そうとしなければ、深い意図があるかどうかは永遠に分からないままなのだが、実は彼女は俺に気があったんだと解釈することは可能である。
みたいなことだ。
本物の解釈学はこんなんと違うと思うけど。

これは結構重大なことで、受け手が解釈してアクションを起こさなければ、世界とは永遠に交わらないままだということにもなる。
受け身で引きこもりの自分には、非常に身につまされる話だ。
そして、ぼくの仮説によると、村上春樹も少なくともその傾向があるということなのだ。
『風の歌を聴け』は、そういう話である。

主人公の「僕」は、誰とも口を聞かない中学生だったが、精神分析科医に「文明とは伝達のことである」と教えられ、何かに目覚めてから、火がついたように喋りまくり、やがて平凡な中学生に戻る。

誰とも口を聞かないと、そもそも小説世界が成り立たない。
物語が立ち上がらないからだ。
1人で喋っているのは、エッセイか論文である。
いや、エッセイや論文だって、誰かに語りかけているものであろう。
「文明とは伝達のことである」とは、そういう意味である。
そこから村上春樹の小説は立ち上げたのだ。
そうぼくは解釈した。
つまり、解釈とは世界と交わるためのアクションなのだ。

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