和装化計画 第1段階:「褌」
文化には、近代化前の「主観の文化」と近代化後の「客観の文化」があると思います。
「同じ素材、同じ大きさ、同じ形ならば同じモノである」
これが「客観の文化」の前提。
しかし「ヒト・モノ・コトは本当に客観たり得るのか」という疑問の中に、近代の行き詰まりを乗り越えるヒントがある気がします。
人間は「モノを理解した生物」。
モノを理解し使うことによって、人間は他の生物と一線を画す存在になりました。
もはや、人間とモノを切り離すことは不可能です。「モノを持たない人間」というのはあり得ない。
モノとは古来、自分とモノの関係性の中にあったのでしょう。「付喪神」のような存在にそうした意識が現れています。
しかしいつしか人は、自分と隔絶した「客観的なモノ」があるかのごとく考え始めた。
私たちの周りにはモノが溢れすぎ、逆に私たちはモノに関心を払わなくなりました。
農薬、アスベスト、マイクロプラスチック、そして放射性廃棄物。
私たちとモノの関係性は、私たちの感性が追いつかないものになってしまいました。
かような記事も、工業製品のスマホで書いているのですから誠に業が深いわけですが、少しでも自分とモノとの関係性についての「感性」を捉え直してみたい。
と、思っているので、現在密かに「和装化計画」を進行中です^^
発端は柊雲会での稽古で、甲野善紀先生に、腰痛に悩まされているが何かよい方法はないでしょうか、と相談したことです。
このとき甲野先生は、剥き出した私の腰に真剣を叩きつけたのですが(傷ひとつついてません!)、合わせて先生は「ゴムのパンツですね。それはやめたほうがよい」と仰ったのです。
私たちができるだけモノを持たないようにしたとき、最低限持たなければならないモノは何か。
それは「服」です。
よほどの緊急時でない限り、全裸で表を歩くことは「人として」許されません^^;
どの程度の服が最低限必要かは文化によって異なりますが、日本を始めとする大多数の国では、下着だけでOKとはならないでしょう。
肌に直接接触する衣服が「客観の文化」の産物だけで大丈夫か。
服を変えれば、現代人が見失っているものが見えてくるのではないか。
そう思い、個人的に「和装化計画」をスタートしました。
第一弾は既に実施中。
まずは甲野先生の指導に従い、ゴムのパンツをやめて「褌(ふんどし)」に切り替えてます。
もう数ヶ月、下着は褌で通してますが、最近ようやく「締め方」がわかってきました。
褌の締め方の「型」はYouTubeなどですぐ調べられるのですが、褌を「ビシッ」と締めるためには少し「稽古」が必要です。
稽古によって、自分がモノに近づく。
ささやかながら、自分とモノとの関係性を少し取り戻した格好です。
締め方がわかると、褌は非常に快適です。
なぜかというと、男性の股間の一物を「ビシッ」と格納できるからです。
市販のパンツでは、この厄介なブツをどう格納するか、雑な答えしか出してないように感じます。
男性の皆様、不自由に感じないでしょうか?
まあ私だけの悩みならいいのですが^^;
越中褌の場合、着るときに脚をしっかり広げて相撲の仕切りのような形にして、尻の側の布のたるみをしっかり取って前に回す。
そして前に回した「余り」をもう一度前から後ろに回して、尻と布の間に挟んで固定する。
こうすると簡単には緩まなくなり、かつ厄介なブツをビシッと固定できます。
六尺褌だと、よりビシッと固定できます。
全体として一枚の布であり、幅がある分、腰帯としての効果もありそう。
「ビシッと感」は六尺褌のほうが上で、武術の稽古の際は六尺褌のほうがいいと思います。
ただ六尺褌は、長時間椅子に座ってると尻がキツイ…。
もう少し上手い締め方がないか研究中。
褌の締め方を数ヶ月稽古することで、いかに自分が工業製品の前で「お客様」になっていたか、改めて感じました。
こっちはアーンと口を開けていればOK。うまくいかなければメーカーやスタッフのせい。モノをうまく使えない責任は自分にはない。
こんな態度、不健全ではないか?
そう考える感性も必要ではないでしょうか。
というわけで、秋の第3回定例会は和装で登庁したいと思ってます。
それを皮切りに全生活を和装化し、どこまでやれるか研究してみます。
この和装化計画には高島平一丁目の「呉服や光永」さんに全面協力いただいてます。
#高島平 の皆様、光永さんをよろしくお願いします!^^
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