コミュニティの必要性を考える@ルークカフェ
私には帰る場所がある。一人暮らしをして半年、定期的に地元に帰省する。そこで必ず立ち寄るのは、カフェと食堂だ。どちらも立ち寄れば数時間話し込んでしまう。
カフェは、「知的情熱に溢れるマスター」が営み、彼は社会の現象にたいする僕の疑問をぶつけ、それに対する僕の意見をブラッシュアップしてくれる。
一方で、食堂では、「話を聞いてくれるおばあちゃん」が営む。プライベートや世間話をしてくれご飯をご馳走してくれる。
▽贈与と返済
■地元での贈与
あえて好まない表現をすると、カフェではマスターの知的財産を、食堂ではおばあちゃんのご馳走を振舞ってくれる。両方無料で提供してくれる。
資本主義のこの社会では等価交換、つまり同等のお金を支払わなければならない。でもこの場所ではそれができない。したくとも。
「お金なんか払わんくていいよ」と言われる。が、等価で返済できなくとも、やはり何か返済の義務感を覚える。だから、たまにはお菓子を持って行ったり、何か簡単なお手伝いをしようと思う。それでも、その返済の多くは断られてしまう。そんなものあなたから頂戴するわけにはいかないと。
だから、僕に残された行為は"未来の誰か"に返済することである。恩を送られたから、恩返しをするのではなく、他の誰かに恩を送るのである。送る相手はまだ決まっていないけれど、「いつか必ず返そう」と感じている。
そういった受動的な気づきがあるから僕は誰かに送ることができる。「ある人から僕は確かに受け取った。でも僕は返せない。だから次世代に送っていくのだ。」と責任を感じることが、おばちゃんやマスターに対する返済になると僕は今信じている。まだ結婚も子どももないが、将来それを返済していくイメージができる。だが、その返済は決して完了することがない。いつまでも「これが返済になるのか?」という疑問符を打ち立てながら行為する。でもそれでいいと思う。もともと等価交換ではないものだから、”もらったことときっちり同じことをした”ということは原理的に不可能なのである。
■今の子どもたちどうか?
では果たして今の子どもたちにこんな「もらったのにもう返せない」感覚はあるだろうか?僕はその疑問には懐疑的だ。
学校が終われば、塾や習い事、休日はテーマパークやショッピングセンターのこどもたち。対価を支払うサービスで埋め尽くされている。
今の資本主義で等価交換が進んだ世界では、”今ここ”の対価の支払いによって「返済が完了してしまう」のだ。もらった贈与に対して「はい、この対価」と返済がすんでしまう。単に、核家族が増えたとか、駄菓子屋が減ったとか「子どもたちの地域の物理的つながりの欠如」が叫ばれる世の中であるが、それ以上に他者との関係が「今、ここ」において終了してしまうのだ。よって子どもの「社会的な関係の完開始と終了」が起こっていると思う。このようにして、地域の人から”無償の贈与をいただけない”現代ではお金を払うサービスしか子どもの周りには存在しない。
■では我々はどうするか
もちろん、僕は解決策を所有しない。ただ、地元の小規模のカフェや食堂の人には伝えたい役目がある。もし、子どもが1人でふらっと立ち寄った時にはご飯をたらふく食べさせてあげて、話をたくさん聞いてあげてほしい。僕はそれを切実に願う。もちろん、大量に子どもたちが押し寄せては無理だが、1人に「みんなには内緒ね」と伝えるだけである。その返済しようもない贈与が彼らの”次世代への恩送り”につながる。きっと彼らはあなたの贈与を思い出し、返済を行うはずである。
▽所属欲求
カフェや食堂に対するもう一つの観点、所属欲求についてお伝えしたい。
(この用語はカフェのマスターの造語である。)
地元に帰る場所があるというのは自分が”何かに属している”という安心感を抱く。そして人間には”私”という部分を集団に属させたいという所属欲求が存在していると僕は思う。それは人類史の中で、人間は集団として生活をしてきた。だから我々は、個人の能力がただ高いというよりも、集団として協働したほうが生き残る確率が高いと知っているのである。だから、何か安心感を覚える居場所に所属する欲求が存在する。生き残る戦略として。
ミクロの部分でそれはカフェや食堂をはじめとコミュニティである。自分の話を聞いてくれる。素の私を受け入れてくれる場所があればこの上ない安心感を生む。家族だと集団として単位は小さい。もう少し単位が大きく、強固なつながりがある場所が地域のコミュニティである。言わずもがな、近代まではそれが多々存在していた。
一方、現代では血縁の家族以外の関係がなくなりつつある。それ以外の関係が「完了を前提としている」ものとなっていることは上に述べた通りである。家族以外に所属欲求を満たす部分がなくなってきている。
■では人類はどういった行動を起こすか?
人々はマクロな所属を求めていく。それは戦前では国家。国家という”見えなくとも存在するという幻想”に所属を求めていく。国家という大きなものに所属する私は安心感をもまた抱くからだ。政党では価値観の所属、SNSではフォローの(誰をフォローしているかが所属となる。)
■だっこをせがむ子どもたち
でも、そういうマクロの所属というのは脆い。見えないし、集団のメンバーが誰かもわからない。
少し話が逸れるが、僕のゼミで児童養護施設に教育実習を行なっている学生が重要な点を主張してくれた。
「抱っこをせがむ子どもが一定数いる。しかし、彼ら彼女らに簡単に抱っこをしてはいけない。なぜなら、特に小学生ほどの年代では”特定の誰か”に愛着を持つことが重要である。それゆえ、たまたまきた実習生が簡単に抱っこをして愛着を持たせると子どもは誰に愛着を持てばいいかわからなくなる」と主張してくれた。抱っこは決まった人が行い、その人に一定の愛着を持たなければならない。これは単なる彼女の主観ではなく、養護施設の常識らしい。
僕は、なるほど!と感じた。マクロな所属が脆く、なぜか強固な安心感を抱けないのは愛着を抱ける”特定の誰か”がいないからだ。別に1人じゃなくてもいいとは思うが、マクロでは誰1人としての所属するメンバーの顔が浮かばない。所属といっても幻想の船にただ自分が乗っかっているだけなのだ。だから、ゆらゆらとどこにいくかわからない不安と、安定しない地面が続くのである。
▽まとめ
■増えるオンラインの所属
最近ではオンラインサロンが増えてきた。ある程度の規模なら、所属集団のメンバーの顔がわかり会話もできる。それでこそ、やっと少しの所属欲求は満たされる。このようにして様々な媒体や形で所属欲求が満たされるものの増設を願いたい。確かなつながりで、日本がもっと安心でき、元気になる国になればと思う。
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