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教育の第一義は人間力の成熟である


■はじめに


私は短い人生の中でお掃除や田畑の作業をすることを大切にしてきた。現在は大阪能勢町の古民家で統合大学を創り、多世代で田畑の活動を行っている。
なぜ田畑の活動をするのか?と言われれば、今まであまり説得力がある解答ができなかった。ただただ、体育会で生きてきたから徹底的にお掃除の型を学び、植木屋の子がゆえ土に触れてきて、食べ物や自然を大切に扱うことが身体に染み付いている。ただそれだけの理由で、ほとんどなんとなく自然と共に生きることを今までしてきた。建前としてお掃除をしたら心が綺麗になるなど、述べてきたが、そんなことは心から信仰しているわけではなかった。ほぼ、心の直感でそうしてきただけである。そうした活動をする中で私は今まで「そんなこと、機械がやればいい」やらなんやら言われてきた。うん、確かに彼らが言っていることは一理ある。時間をかけて火を起こしたり、わざわざ無農薬で作物を育てることなど到底理解し得ないだろう。安価で短期間で済ませることがこの資本主義の世の中では大切にされているからだ。
ただ、最近、やっと田畑の活動をすることの大切さがわかってきた。その目的とは、人間力の成熟である。人間力とは、人間が生きるための知恵や力、他者や自然や作物を尊重する心である。その力を醸成するために田畑の活動がある。
そのためには、いかに集団が存続するかを考えなければならない。自分が生きている集団が存続するために、正しい植物の見分ける、火起こし、作物の育てることを他者との協力協奏で行う。そうすることで食のプロセスを学び、食べ物をいただくこと、生命を知る。お掃除をしたり、モノを磨くことで、モノを長く使い続けることを知る。それらの営みによって人間(子ども)は、人間的に成熟していく。一人前の大人になる。そのように、1人1人の成熟によって地球が持続可能なものとなっていく。統合大学では自戒もこめて集団で人間力を成熟していきたい。

■学校の自然活動の課題


一般の学校教育の一環で子どもたちは植物を育てる活動を行う。しかし、①活動の意義、本質を理解していない、②成人してからは全く行わない、ことからそれほど意義があるものにはなっていない。なぜなら、子どもたちはある一定期間、活動の本質もわからないまま先生に連れられ植物を育てるからである。生活の一部分として暮らすことが体現されていないのである。森の自然体験などに行って、自然と共に生きることの意義に感化されても、次の日からまた都会暮らしに、その意義は忘れてしまう。つまり、せっかくの活動が、局所的な”体験”となっており、”暮らし”の中で習慣化、体現化することができていない。それゆえ、自然体験中に、普段の暮らしの中で「どのように自然と共に生きるか」も伝えないといけないだろう。それは例えば、危険性のある食べ物、食べ方の防ぎ方、どういった考えで生きていくかを伝える。そうすることで普段の日常の中で自然と共に生きることを思い出すことができる。
SDGsと叫ばれているが、それは技術の革新であるに過ぎない(もちろんSDGsが必要とされる場面もある)。地球を持続可能なものに変えていくには技術やテクノロジーよりもまず最初にモノ、自然への振る舞い方を変えなければならない。テクノロジーが発展しても、平気でモノを粗末に扱ったり、食べ物をモノ(生命をいただいていると感じていない)として扱ったりしていては地球は守られない。偉い人たちの技術よりも一人一人の人間的に成熟である。

■学校指導の課題

また教室では、偏差値競争教育が行われる。集団がいかに存続していくか、ではなく個人がライバルに差をつけること、個人が1人でも生き残るかを学んでいく。真面目な家庭ほど、家では「家事をするぐらいなら勉強しなさい」と言われる。つまり、生きていくための知恵や力の形成よりもピラミッドのトップに居ることを目指される。偏差値でランキングを付ければある一定層の学生は生き生きと活動するかもしれない。でもその生き生きとする生徒は”トップに立てる可能性のある生徒のみ”である。それ以外の生徒はからなず、教室では生きづらくなってしまう。長い間、生きづらく生活していると驚くほどに生きる知恵や力が衰退する。
さらに問題は残る。学校教育の誤った理由は対象の間違えていることにある。
私が訴えている「人間的成熟の醸成」は集団に向けて一斉的に行われるものである。この指導は武道における稽古に近い。必ず全員参加で、心を磨き続けるため永続的に行わなければならない。「習得したからもうやらなくてもいい」ということはない。個別の進捗度合いなども関係ない。このような生きる知恵や力は、他人と比較してこの段階である等がわかるものでもない。数値化もできない。それゆえに、集団で指導をしても格差が生まれず、誰1人として取りこぼすことのないものである。また、人間力を醸成するには他者と必ず協力協働して行かなければならない。田畑での活動は非効率であるが、非効率であるがゆえに、1人では動けず、人とつながり、協力する。集団や社会で生きるためには「他者と協力しなければいけない」ことを学ぶ。一方で、偏差値教育は「人間1人で生きていられる」という誤解から始まる。彼らは、専門性が高ければ、その他の分野(料理やお掃除)はその分野に長けている人たちに任せればいいと本気で考えている。私はその考えが非常に幼稚であると感じる。なぜなら、専門性信者は「今ある時代はこのまま続く」と誤解しているからである。
いつ食糧危機、文明崩壊が起こるかわからない。皆が危機に瀕した際に生き残れるようにも集団で生きる知恵を身につける必要がある。
それゆえに、この集団の存続を踏まえた教育は集団一斉指導との相性がよく、一斉に教えることに意味がある。
一方、「個人の成長」は個別に行うべきものである。個人が最も定着しやすい方法、順路にそって行われるべきところである。この部分は令和のシステム(ZoomやiPad)と相性も良い。英語1つとっても学びのモチベーションが駆動する瞬間も学ぶ方法も違う。
畢竟するに、問題であるのは、「現代の学校では旧来からの”集団一斉指導”で個別学習をおこなっている」ことにある。集団一斉指導と個別学習はそれぞれの適所がある。どちらが悪というわけではない。

統合大学では、旧来のやり方、現代のやり方を上手く統合させていきたい。リアルでは「懐かしい未来」と表し、縄文時代の暮らしを集団で学び、オンラインでは「令和の方法」で個別に学んでいきたい。再度強調しておくが、統合大学での学びは“お受験塾”ではなく、“お稽古”に近い。学ぶことは天気や場によって変更し、掃除や料理も自分たちで行う。塾のようにテクニックを身につけるだけではなく、人間的に成熟することを大切にしていきたい。

■心と直感に従う勇気を持って学ぶ。


人間的な成熟を教育の第一義とする理由はまだある。それは直感や心を育てることだ。
この箇所は非常に言語化と組み合わせが悪いところでもあるが、田畑で作業をしていると(特に誰かと話しながら)自分の中に閃きが起こる。なぜか?はまだ未熟な私には理解できないが“そういうもの”である。人間の古来からの活動のためか非常に元気が出ることは確かだ。閃きが出てくると「あれしたい!やってみたい!」という自分の心からの欲求が出てくる。その欲求つまり、直感が冴えてくると自分がやりたいことがぼんやりと見えてくる。そこから第二義である「個人の成長」が始まるのではないだろうか。

一方、学校ではそういった自分の欲求が見つかる前に「これを勉強しろ。これを勉強するといいことがある」と述べられる。自分が欲しているわけではない利益で誘導され、なんとなく勉強する。つまり、学校で教わる勉強が、自分がワクワクする欲求(心や直感)は置いておき、外部の利益に誘導されえ行うものになっている。それを「勉強」と誤解してしまうからこそ、外部の利益誘導を失った大学生は勉強をしたくなくなる。今の大学生の怠惰問題は、大学のシステムというよりかはそれまでの学校生活からの積み重ねによるもである。
しかし、私たち人間は本来、なんとなく、あることがしたくなり、何となくあることを避けたくなる。直感に駆動されあることに熱中したくなる。だが、なぜか?という理由を訊かれても、答えられない。特に子どもは有効な反論を行うことができない。だが、何年か何十年か経って振り返ると、それらの選択には必然性があることがわかる。自分がこれからどういう「点」を結んで線を書くことになるのか事前にはわからない。「点を結ぶ」ことができるのは、常に事後的、回顧的でもある。だから、事前の利益誘導で駆動されてはいけないということである。事前に、自分の小さな物差しで利益誘導を“理解できてしまう“ということはその学びに”学びは少ない“ということである。直感に駆動され学び、事後的に「これをしていて自分の枠が外れた、学んでいた」ということに気づく。個人の成長とは「それまで自分が知らなかった度量衡で自分のしたことの意味や価値を考量し、それまで自分が知らなかったロジックで自分の行動を説明することができるようになるということ」だからである。

統合大学では出てきた直感を少しカタチにするためにMVP(Mission Value Passion)というワークを行う。自分が心からやりたいことは何か、何に価値を置いて、どこに向かいたいかを明らかにする。さらに、自分の夢や志が見つかればそれを企画書にまとめプレゼンを行う。理想を語るだけはなく、実践内容を踏まえ「心と直感→実践」という一本化のプロセスは現実創造の基本となっている。

■メンターとの出逢う


私の師匠やメンターは周りからは大先生として従われていないことが多い。しかし、なぜかその師に話しを聞きたくなる。直感に駆動され一緒に時を共にしたくなる。でも、何を聞いたらいいのかもはっきりわからない。だから、一緒にいて話さないだけの時間もある。ただ、師から学んだ数々の点が線となることは確かである。そこは経験としてわかる。
余談ではあるが、「超人ほど何をしているかわからない」ことも確かである。彼らは自分の凄さをひけらかさない。ひけらかそうにも、彼ら自身も自分の凄さを理解していないことが多い。だから、一緒に時を共にする中で彼らの人間性を引き出すのである。

統合大学では非常に数多くのメンター(先人)が存在する。そのメンターとは絶賛子育て中のママさんたちから人間国宝の方、小説家、政治家、社長と多岐に渡る。
その彼ら彼女らと共に田畑を中心に里山暮らしを行う。セミナーなどのように「話し手の凄さ」を理解せず、(人間力や直感や育つ)田畑で交流しているうちになんとなくこの人ともっと話しをしてみたいという感覚がわかる。それもまた直感である。メンターが見つかれば、自分の「直感→実践」も加速する。
またメンターたちのオンライン勉強会、オンラインゼミも加速していきたい。彼らの生きた活動を若者に届け、学びが駆動するきっかけを創っていきたい。もちろん、講義一辺倒のものではなく、若者が参画できる範囲で現実創造のプロセスを学んでいきたい。オンラインにアーカイブを残し、いつでもメンターに出逢える場所にしていく。

■まとめ(教育の柱)

第一義「人間的成熟」
集団の存続を考える。
農作業、田畑、火起こし、植物の見分けることを通して、集団がどのように創られてきて、これから自分が創るのかを学ぶ。自他共に成熟する。

第二義「個人の成長」
自分の心に問いかけてその答えを生きる(Inside Cre8)
・統合大学ワーク
MVP、ポストイット、企画書作り、マインドフルネスリスニング、マイプロ実践報告会
・個別学習
「海外で外国人と生活したい!」そのために英会話力を鍛える
「今の教育を変えたい!」そのために教師になる、塾講師になる、教育行政改革をおこなう。

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