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『終末トレインどこへいく?』-電車というガジェットに関する一考察-


春アニメ総評

 久しぶりのアニメ批評。というかラブライブ!とレヴュースタァライト以来、3回目ということになります。
 さて、今期のアニメはいかがでしょうか。前評判が高いのは知りつつも、個人的にどうも気乗りしないと思っていたのですが、どうして結構良質なアニメが揃っているではないか?というのが私の感想です。傾向として、3、4話で一気に流れを変えにくる物語が多いですね。
気を衒うアニメ、嫌いじゃ無いですよ。

気を衒う展開にすると、12話で収まりきらない可能性もありますが

あらすじ&位置付け

 今回は、そんな豊作な春アニメの中でも特に異彩をはなつ『終末トレインどこへいく?』について、本作で重要な要素となっている「電車」を軸に考えてみたいと思います。
まずあらすじから。(『終末トレインどこへいく?』HPより引用)


郊外のとある町。
ここはどこにでもある、ごくごくありふれた田舎……ではなかった。
住民たちに大きな異変が起きているのだ。

だけどそんな中でも千倉静留には、強い思いがあった。

行方がわからない友達に、もう一度会いたい!

静留たちは放置されて動かなくなっていた電車で、
生きて帰ってこられるかどうかもわからない外の世界へと出ていく。
走り出した終末トレインの終点には、いったい何がある?


 とこんな感じに記載されているのですが、より詳細かつ簡潔にまとめれば、(ネタバレあり)
①「7G事件」なる、世界の異変を引き起こすイベントが発生
②世界はとんでもないことに
③友達を探すため、主人公が吾野から電車を使って池袋に向かう
④その道中を描く冒険譚
 こんな感じでしょうか。
 第一話から少しシリアスな雰囲気があり、全体の展開を見ても『メイドインアビス』『魔女の旅々』『キノの旅』によく似た印象を受けます。とりわけ、若干教訓っぽいものを売ってくるところは、『魔女の旅々』を感じます。とはいえ、今回の主人公はあくまで女子高生「たち」であって、孤独な魔女の冒険譚とは異なり、どこか青春臭さや人間臭さも漂います。ここら辺は、『SHIROBAKO』を生み出した水島努監督らしさとも言えるでしょうか。

イレイナの名言「本当に本気で何かを成し遂げる時、人はいつだって孤独です。1人じゃなければダメなんですよ。馴れ合ったら終わりなんです。」はかなり好きです。

電車論

アニメと電車

 しかし本作の最大の特徴は、なんといっても「電車」というガジェットでしょう。実際に女子高生が運転するわけですが、該当シーンの描き具合を見るに、どうにも「電車」に熱が入っている印象を受けます。

 電車とアニメと聞くと、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
両方ともオタクがキモい?私がどっち側の人間かは言いませんが、一緒にしないでいただきたいですね。

 不毛な議論は置いておいて、電車はアニメ作品において昔からキーガジェットとして存在しています。
 例えば古参で行けば『銀河鉄道999』でしょうか。これも電車に乗って宇宙を旅する冒険譚ですから、本作と重なる部分はあるでしょう。『銀河鉄道999』もどちらかといえば最後に大どんでん返しがある作品ですね。999号は特殊な列車で、アンドロメダ発の上り電車はメーテル以外の乗車が認められず、行き先にも彼女の意向が働くのですが、彼女の従来の目的を思い起こせば、999号はなんとも残忍な列車と言えるでしょう。
 続いて『魔法少女まどか☆マギカ』および系列の『マギアレコード』。前者は言わずもがなの名作で、新作映画が今から待ち遠しいです。後者は、一期は面白かったものの、2期以降が少し暴走しました。魔女vs魔法少女という従来の構図を覆す斬新なアイデアは良かったのですが、結局御涙頂戴のバッドエンドに持っていったのが残念でしたね。さて本シリーズでも、闇堕ちした魔法少女が電車内で人間を殺ってしまうなど、電車は不気味なシーンの象徴として使用されています。

あたしって、ほんとバカ


このシーンもなんともいえない不気味さがあります

 少し考えてみると、別にアニメ作品に関わらず、創作において電車は往々にして恐怖の対象であることがわかります。一世を風靡した2chの書き込み『きさらぎ駅』や根強い人気を誇るサスペンス『十津川警部シリーズ』などなど、枚挙にいとまがありません。余談ですが、キッズアニメの代表格であるクレヨンしんちゃんシリーズ屈指のホラー回『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!』も電車を利用したホラーシーンがあり、監督は『終末トレインどこへいく?』と同じ水島努監督です。

電車の特徴


 閑話休題。ではなぜ電車は、そういう扱いを受けるのでしょうか。理由は様々あるでしょうが、私は人間による操作可能性を著しく欠く乗り物だからと考えます。この点は、他の乗り物と比較すれば容易に理解が可能です。例えば車や自転車。これらの乗り物は、人間がハンドルを回すことで行き先を自由に決め、足を動かすことでスピードを自由に調節できます。すなわち、行動の自由が大きいのです。もし車が100台連なって首都高を一周しても、一台として同じ轍を踏むことはないでしょう。それに対して電車は、スピードは調節できても行き先はレールに従うしかありません。100回電車が通っても、その行き先と踏む轍は必ず一致します。だからこそ優れた乗り物として使用されるわけですが、この点は他の乗り物と比較して、人間による操作の可能性を著しく低下させていると言わざるをえません。
 結果的にどうなるか?電車という乗り物が、人間によって操作できない特別な存在として扱われるようになり、存在感が上がります。具体的には、電車の擬人化が始まります。皆さんも一度は耳にしたことがあるでしょう。「レールの上を歩くような人生」。いつの間にか電車のレールは、人生と同格で語られるくらい「えらい」存在になり上がりました。アニメ作品でもこの現象は珍しくありません。私が愛するアニメ作品『レヴュースタァライト』においても次のようなセリフがあります。「列車は必ず次の駅へ、では舞台は?舞台少女は?」いつの間にか、列車と人間は対比されるようになっているのです。もっとも、列車は必ず次に行くけれども、人生は必ず次に行けるとは限らない。次に進むためには決心と覚悟がいることを、私たちは経験的に知っています。(そういう意味で、「レールの上を歩くような人生」というのはとてつもなく難しい!)

レールが壊れた瞬間、いよいよ電車を操作することはできなくなります。

『終末トレインどこへいく?』における電車

 長くなりましたが、ここまでで電車というガジェットの特徴について概観しました。「電車論」とも呼ぶべき議論だと思うのですが、あくまで一オタクの考察にすぎませんのでその点はご容赦ください。
 では、今回の『終末トレインどこへいく?』はどこが特徴的なのか?それは電車を「動かす」シーンが詳細に描かれていることです。この点は、私の知る限り、他の作品には見られません。999号に車掌はいるけれど普段は全自動です。スタァライトに登場する列車は、燃料を燃やして走るのみで運転手は存在しません。そもそも先ほどの議論を辿れば、運転手の操作可能性は低いのですから、わざわざ取り上げる必要性がないのです。しかし今回の『終末トレインとこにいく?」は微細にわたり電車を操作するシーンが展開されています。

鉄オタはこのシーンに大歓喜したことでしょう

 電車という操作可能性が低い乗り物をあえて操作しようとするシーンを盛り込むことには、十分意味があると思われます。一言でまとめれば、登場人物の意思の表現でしょうか。なんとしてでも「池袋に行きたい」という埼玉県民の悲痛な思いが、そこにはあります。あるいは人間の強さの表現でしょうか。本作品では、7G事件の影響のせいで、通常の人間は形を変えられてしまいます。そんな中で未だ人間として生きるのが、主人公の女子高生たちです。彼女たちの人間としての強さが、電車の操作可能性を飛び越えて表現されている気がします。余談ですが、異世界転生ものが流行する中で異世界転生から取り残されたキャラクターにスポットを当てているというのは、なかなか皮肉が効いているのではないでしょうか。

最後に

 人間の思いと強さの表現として、電車の操作が行われていることもあり、本作品はシリアス展開な印象を持たせつつも、絶望感に満ちていません。このような作品は少しのさじ加減でどのような展開にでも転び、その度にオタクから批判を食らう可能性があるため塩梅が難しいのですが、「女子高生」×「電車」という奇妙な組み合わせが、想像以上にストーリーの雰囲気を調整していると考えられます。

 本来であれば7G事件から読み解く7Gの世界について、私が学部時代にお世話になった(と勝手に思っている)永野宏志先生から頂いた知見や思考をもとに考察を加えたいところですが、アニメ放映中ということもありますので、また稿をあらためて論じることとします。

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